本の覚書

本と語学のはなし

アッシジのフランチェスコ 人と思想184/川下勝

フランチェスコ

 アッシジのフランチェスコは1182年(81 ?)に生まれ、1226年10月3日に43歳で亡くなった。道元(1200-1253)のちょっと先輩にあたる。
 フランチェスコという名はフランス人を意味するという。小高毅は「フランスちゃん」と言っていたから、縮小辞の要素が入り込んでいるのかもしれない。富裕な商人であった父が、商用でよく行くフランスに憧れて付けたものらしい。読み書きはできたから当時としては学のある方であるが、専門の神学教育は受けたことがない。

小さき兄弟会

 裕福ではあったが、階級としては上流階級(Maiores マヨーレス=より大きな者)ではなく、庶民階級(Minores ミノーレス=より小さな者)に属していた。
 後に父と訣別して清貧の生活に入り、彼を慕う仲間とともに作った会を「小さき兄弟会」と名付けた。ラテン語ではこれをOrdo Fratrum Minorumという。MinorumはMinoresの属格で、Fratrum(兄弟たちの)を修飾している。恐らくはミノーレスからマヨーレスへと身分を飛び越え、騎士になることを夢見ていた頃を反省し、へりくだりの中に生きることを表明したものである。

ミノーレスからミニミーへ

 私にはもう一つ、頭に浮かぶ聖書の言葉がある。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」(マタ25:34-36)。しかし、「正しい人たち」には身に覚えがない。いつ王にそのようなことをしたであろうか。王は答える。

et respondens rex dicet illis
amen dico vobis
quamdiu fecistis uni de his fratribus meis minimis mihi fecistis (Mt25:40)

 「そこで王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしれくれたことなのである』」(マタ25:40)。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」の原文にあたるところはhis fratribus meis minimisである。Minorumは比較級で「より小さき」を意味したが、minimisは最上級で「最も小さき」である。
 フランチェスコの会は、最上級に至るまでより小さくへりくだり行こうとする運動でもあったのかもしれない。

会から離れて

 第五回十字軍のさなか、平和を求め、エジプトにわたりスルタンと対話したという。その後パレスティナやシリアにも赴いた。
 しかしその間にも、膨張しすぎた会は既に混乱を生じつつあった。教皇イノケンティウス三世から口頭で認可を受けたという原始会則では間に合わず、新たな規則を作成する必要に迫られた。現在、1221年の『勅書によって裁可されていない会則』と1223年の『勅書によって裁可さた会則』が残されている。朝倉文市はその辺の事情にフランチェスコと会の乖離を認めているが、川下勝はより深くフランシスコ会の内部にいるせいか、単に法的、技術的問題と考えようとしているようだ。
 いずれにしろ、フランチェスコは会の運営の第一線から退く。小鳥に説教したり、狼と人間を和解させたり、ベツレヘムの馬小屋を再現してクリスマスを祝ったりしつつ、瞑想と弟子たちの精神的指導、人々の教化に専念する。

聖痕と死

 いくつもの病気に犯されていたようだ。衰えた体に聖痕が現れた。イエス磔刑に処された時、両手両足を釘で打たれ、脇腹を槍で貫かれた。その五つの傷と同じようなものが、フランチェスコの体にも現れたというのだ。彼はこの傷に苦しみつつ、その恵みに感謝したという。
 それから二年、いよいよ臨終という時になって、フランチェスコは修道服を脱がせ、粗末な下着姿にしてもらうと、むきだしの大地に横たえてもらった。裸で裸のキリストに従うためである。こうして、最も小さき者として死んでいった。