本の覚書

本と語学のはなし

はじめての死海写本/土岐健治

 死海の西岸にクムランと呼ばれる地域があり、二十世紀の半ば頃、その洞窟(人工のものもある)から旧約聖書や注釈、ここを拠点としていた宗団の規則書などの写本が発見された。
 クムラン宗団を構成するのはエッセネ派と呼ばれるユダヤ教の一派である。新約聖書には、厳格ではあるが形式的な律法主義を奉ずるパリサイ派や、祭司職を出し政治にばかり関心を示すサドカイ派の名前は見られるが、清貧な修道士のごとき共同生活を送っていたエッセネ派については何も書かれていない。
 高校の倫理の授業で、キリスト教の説明の時、おそらくクリスチャンであった教師が何かの本の一節を読み聞かせてくれた。それによれば、若き日のイエスエッセネ派に交わり、熱心に「イザヤ書」などを読み解こうとしていたのだという。確かにエッセネ派と関わりがあったと想定される洗礼者ヨハネとイエスの間には親和性が認められるようだし、本格的な活動に先立って四十日間(象徴的な数字であるが)荒野で悪魔の試みを受けたというマタイの記述は、エッセネ派との接触を疑わせるものではある。
 しかし、死海写本から想像されるエッセネ派の思想は、イエスヨハネパウロ、初期キリスト教と共通するものもあれば、相容れないところもある。写本の全面的な公開まで時間がかかり過ぎたこともあって、キリスト教(あるいはカトリックの教義)の根幹に関わるような、とんでもない秘密が隠されているのではないかと信じられたりしたこともあるけど、どうやらそれ程には濃密な関係性を想定する必要もないようだ。著者の最後の言葉は、その辺りの消息について、とても抑制的である。

 クムラン写本の中には、直接間接を問わず、イエスや初期キリスト教への言及は見出されない。しかし、洗礼者ヨハネが活動の初期においてクムラン宗団と何らかの関係があった可能性は否定できず、イエスや初期キリスト教が(クムラン宗団は別にしても)広い意味でのエッセネ派*1を知っていた可能性も、状況証拠から十分考慮しうる。
 しかし、新約聖書エッセネ派はまったく言及されておらず、エッセネ派がイエスキリスト教に影響を与えたと言うよりは、背景の一部ととらえるのが適切であろう。
 最初期のキリスト教ユダヤ教の一グループとして出発したことを考えれば、旧約聖書をはじめとする共通の先祖の遺産を受け継ぎつつ、共通の文化的宗教的な土壌に生まれ育った二つのグループが類似していることは、むしろ当然であり、類似点の中には他のユダヤ教グループ(文献)と共通するものも少なくなく、より広い視野の下に、両者の関係は研究され論じ続けられている。
 虚心坦懐にイエスの言葉に耳を傾け、新約聖書の告知を真摯に受け止め、この世界の罪過の共同性を深刻に感じ取り、知的誠実を貫こうとする人々にとって、クムラン文書から学ぶべきものは、決して少なくない。(p.259-260)

*1:エッセネ派は荒野だけでなく、町にも住んでいた。