本の覚書

本と語学のはなし

よくわかるカトリック/小高毅

 キリスト教とは何か、というところから説き起こしているわけではない。カトリックプロテスタント東方教会との相違、殊に教義上のそれを詳述しているわけでもない。かといって、カトリックを体系的に学ぶための本ではなく、そうかといって、気楽なエッセーと言うには引用がふんだんに盛りこまれていて、決して読みやすい本というわけでもない。どういう読者を想定しているのか今ひとつ分かりにくいのだけど、全く無知な人よりは、既にカトリックに足を突っ込んでいる人が読んで面白い本だろう。
 私としては、第二バチカン公会議の文書からの引用が多いのが嬉しい。かつて洗礼を受けた頃、周りには保守的な人が多く、第二バチカン公会議を教会の堕落のように言っているのを聞かされた記憶がある。当時、そんなことには全く興味がなかったから、その会議によって何がどう変わったかなどということは結局知らずじまいだった。というより、そういう込み入ったことを教え込まれる前に、スカプラリオを後生大事に信心する私の代父ら数人のグループを逃れるようにして(それだけではなく、自傷癖のある或る女性からも逃れる必要があったのだが)、教会を去ったのだった。

 マリアへの崇敬はカトリックの大きな魅力の一つであるには違いないけど、全てのマリア信仰にカトリック信者は付き合っていかねばならないものだろうか。ルルドやファティマの奇蹟は有名だが、それ以外にもマリアの出現は数多く報告されており、まれには教会から公認されることもある。著者は、

しかし、それにしてもです、それらの出現、あるいはその際告げられたメッセージ(私的啓示)を信じなければカトリック信者たりえないのでしょうか。(p.160)

と、ちょっと興奮気味に書いた後、ある神学者の引用をもって、必ずしも信じる必然性はないことを示唆している。
 スカプラリオなんかもずいぶん古い歴史のあるものではあるけど、事故や災害の中これを身に付けていた人だけが助かったなどという功徳を説かれても(たぶんそれだけではないのだろうけど)、私はそんな功徳など願い下げなので、単に教会公認であることを根拠に信心を強制されたくはないのである。

 もう一つどうでもよい話。著者はフランシスコ会の人である。私が初めてキリスト教接触を持ったのは小学生の時だが、調べてみると、それはフランシスコ会のイタリア人神父であった。受洗後、一度だけ地元の教会のミサに与ったことがあるが、その時の司祭もそのイタリア人神父で、ずっとその教会にいたのかと思って聞いてみたら、長らくそこを離れた後、最近ふたたび戻ってきたということだった。確かなことは分からないけど、今はまた別の教会に移っているようだ。
 そこでフランシスコ会の修道士になるという妄想をしてみる。受洗後三年以上経過した成人男子が対象だが、受洗後教会とほとんど関わりを持たない私は、教会に通い直すところから始めなくてはならないだろう。熱心に通って暫くしたら、司祭に召命の話を切り出す。先ずは短期合宿に参加し、適性を見極める(アスピラント期)。志願院で一、二年の共同生活を送る(志願期)。修練院において修道服を着衣し、祈りと手仕事をしながら、一年の後に初誓願をする(修練期)。一年ごとに誓願を更新しながら、三年から六年の後に荘厳誓願(終生誓願)をする(有期修練期)。それぞれに派遣された場所において、司祭職なりその他の使徒職なりの準備や奉仕をしつつ、使命を全うする(生涯養成期)。一人前になる頃にはよぼよぼになっていそうだけど、養成プロセスのパンフレットを見ると、案外年配の人が多くてびっくりする。司祭を目指すばかりが修道士になる目的ではないのだろう。
 しかし、肝心の召命の自覚というものが全くない。先ず教会に通うという最初の段階からして、実現することはないだろう。