本の覚書

本と語学のはなし

【モンテーニュ】笑う能力がある(リジブル)だけにおかしなもの(リディキュル)【エセー1.50】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第50章「デモクリトスヘラクレイトスについて」を読了する。
 「心が事物にまとわせたものについて、われわれが、みずからに説明しなくてはいけないのだ」という。これもまた、モンテーニュがエセーを書く理由の一つであっただろう。
 デモクリトスは笑い、ヘラクレイトスは泣く。前者は人間存在を空しく、滑稽なものと考えていたのであり、後者は憐れむべきものと考えていたのだ。モンテーニュデモクリトスの方を好む。彼もまた、「われわれの価値からして、われわれは、どれほど軽蔑されても足りないくらいだ」と思うのである。

Nostre propre et peculiere condition est autant ridicule que risible. (p.304)

われわれ人間に特有の、存在のありようとは、笑う能力があるリジブルだけに、おかしなものリディキュルなのである。(p.302)

 この章を締めくくる言葉である。
 関根秀雄訳では「この我々人間に特有な本性は嘲笑リディキュルすべくまた憫笑ジーブルすべきものである」、原二郎訳では「われわれ人間に特有な性状はおかしくも笑うべきものである」となっている。普通に訳せばそうなるだろう。
 だが、スクリーチの英訳では「Our own specific property is to be equally laughable and able to laugh.」、フレイムの英訳では「Our own peculiar condition is that we are as fit to be laughed at as able to laugh.」となっている。いずれもリジブルは笑う能力のことと考えるのである。
 ランリの現代フランス語訳も同じく「Notre condition propre et peculière est aussi ridicule qu’elle est capable de rire.」となっている。注釈ではリシブルを説明して、「opposé à ridicule (digne de risée) ; il ne peut guère avoir ici que son sens premier (cf. l’homme qui est un animal risible, c’est à dire : qui a la faculté de rire).」という。リディキュルとリジブルとは、類語を併置したのではなく、反対の意味ををもつ語を対置したのだということである。
 現代語ではもうその意味では使われないけれど、リジブルの第一義は笑う能力のことなのである。