モンテーニュはレーモン・スボンの『自然神学』という本を翻訳したことがある(1569年刊行)。私は持っていないが、入手は可能のようである。
モンテーニュは長い論考向きの人ではないし、哲学の話題が多く、すんなりと理解できるというものではない。懐疑派に入れ込んでいた時期でもあって、人間の理性も感性も不確実なものであり、あてにはできないということが、あれこれ語られる。それは、まったくスボンの弁護などにはなっていないらしい。
有名なクセジュという言葉が出てくるのは、この章である。
彼らが「わたしは疑う」というと、人々は彼らののど元をつかまえて、彼らが少なくとも、自分が疑っていることを認識し、これを確信していることを、なんとか白状させようとする。(p.160)
デカルトはこの懐疑を方法として用い、疑う主体の存在だけは絶対に疑うことはできないとして、ここに哲学の基礎を築いたのであった。
このような懐疑主義という考え方は、わたしが天秤といっしょに銘とした「わたしはなにを知っているのか?」のように、疑問形で示せば、より確実にわかるのである。(p.160)
モンテーニュは懐疑の定式を疑問形によって徹底しようとした。反語であり、強い否定であって、畢竟無知の知を言い表わしたものだというような解釈は、少なくともモンテーニュがここで言おうとしたことではない。
我々にはそもそも、何らかの恩寵でもない限り、真理を認識する能力がないのである。