本の覚書

本と語学のはなし

メノン/プラトン

 想起説は登場するが、イデア論には言及されない。中期著作群へあと一歩というところまできて、模索している作品のようである。


 それにしても、私にはどうもプラトンの対話篇が肌に合わない気がする。会話だとはいえ哲学なのだから、もちろん注意深く読まなくてはついていけない。しかし、耳を澄ませたつもりでも、どうしてそのように会話が進んだり、挫折したりするのか、ピンとこないことが多々あるのだ。
 対話相手のメノンもまた、ソクラテスをシビレエイにたとえる。

もし冗談めいたことを言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者をだれでも、しびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから。(p.42-3)


 魂はこの世で肉体をまとう前にすべてを知っていたのであり、我々が学ぶというのは、それを想起することである、というような想起説は、まだ真実在のイデアと組み合わせられてはいない。
 それどころか、『メノン』の段階では、証明されるべき何かというよりも、勇気を与えてくれる仮説という程度のようである。

そう、じつはね、ぼくは自分でもそんな気がするのだよ、メノン。ぼくは、ほかのいろいろの点については、この説のためにそれほど確信をもって断言しようとは思わない。だがしかし、ひとが何かを知らない場合に、それを探求しなければならないと思うほうが、知らないものは発見することもできなければ、探求すべきでもないと思うよりも、われわれはすぐれた者になり、より勇気づけられて、なまけごころが少なくなるだろうということ、この点については、もしぼくにできるなら、言葉のうえでも実際のうえでも、大いに強硬に主張したいのだ。(p.69)


 徳は教えることができるか、というのがこの作品のテーマであった。徳が知であるならば、教えることは可能である。だが、おそらくは徳を知として把握し得た人はいないのであって、あるのは思わくだけなのである。
 正しい思わくならば、それが正しい間は上手くやっていくことができる。それなりに評価されてもいるようである。だが、ソクラテスはそこで満足はしないのである。

つまり、正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっているあいだは価値があり、あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げだしてしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない――ひとがそうした思わくを原因(根拠)の思考によって縛りつけてしまわないうちはね。しかるにこのことこそ、親愛なるメノン、先にわれわれが同意したように、想起にほかならないのだ。そして、こうして縛りつけられると、それまで思わくだったものは、まず第一に知識となり、さらには、永続的なものとなる。こうした点こそ、知識が正しい思わくよりも高く評価されるゆえんであり、知識は、縛りつけられているという点において、正しい思わくとは異なるわけなのだ。(p.109-10)


 だが、徳そのものが何であるかということは、探求されずに終わってしまった。まだ道は半ばなのである。
 それまで、有徳が人が有徳であるのは、「神の恵み」ということになるのであろう。哲人政治家が国家を運営するようになるまでは。