本の覚書

本と語学のはなし

エセー3/モンテーニュ

 『エセー』第2巻第1章「われわれの行為の移ろいやすさについて」から第11章「残酷さについて」を収める。


 第4章「用事は明日に」では、アミヨによるプルタルコスの翻訳に触れている。

彼の翻訳のいたることろに、簡潔にして、一貫した意味が見てとれるわけで、彼は、きっと著者の真意を理解していたにちがいない。あるいは、プルタルコスとの長い付き合いのおかげで、自分の心のなかに、プルタルコスの心の全体像を、がっちりと植えつけていたために、少なくとも、プルタルコスの考えに反したり、食いちがったりすることは、なにひとつ加えるようなことはしていないのだ。(p.75)

 モンテーニュプルタルコスの作品について、「あれほどに面倒で、難しい著作」という。ギリシア語で読もうとしたことがあるのか、読んだ人から聞いたのか(ラ・ボエシも少し翻訳している)は知らない。一応「こっちはギリシア語が皆目わからないときている」そうなのだが、宮下志朗は「謙遜であり、実際はかなり読めたと思われる」と注している。
 アミヨには感謝している。彼の翻訳でプルタルコスを自由に読むことが出来なかったら、「破滅するしかなかったにちがいない」というのだ。


 第6章「実地に学ぶことについて」では、モンテーニュ臨死体験が語られる。
 馬で出かけたときに、部下の馬が全速力でぶつかってきた。モンテーニュは空中に放り出され、10歩先まで飛ばされた。

顔の皮もむけ、傷だらけ、手にしていた剣は、そこからさらに10歩以上遠くに飛ばされ、ベルトもずたずたとなって、わたしは、まるで切り株みたいに、身動きもせず、感覚もなくなった。これまでに経験した、たった一度の気絶が、これなのである。(p.93)


 第10章「書物について」は全部引用したいくらい重要な章である。
 『エセー』において試されているのは、モンテーニュ自身の先天的な能力であって、後天的に獲得されたそれではない。知識が問題なのではない。「無知なところをつかまえられても、どうということはない」のである。
 他人の著作を引用したり、地の文章に混ぜこむときには、「わざと著者の名前を隠している」(現在のテキストでは、ほとんど暴露されてしまっているけれど)。「読む側が、わたしだと思って、プルタルコスを侮辱すればいいし、わたしだと思って、セネカを罵倒して、やけどでもすればいいのである」。

そして、もうひとつの読書、つまりは、楽しみだけではなくて、少しばかりたくさんの効用もまじっていて、自分の思考のあり方をどう整理すればいいのかを教えてくれて、役に立つ書物というならば、それはプルタルコス――彼がフランス人になってからの話だが――とセネカにとどめをさす。(p.173)


 最後に、同じ章の中からもう一つ引用をしておく。私が今読書に求めていることと、変わらないように思われる。

わたしだって、できることならものごとについて、より完璧に理解したいと思いはするものの、すごい高い代価を支払ってまで買うつもりはない。わたしの腹づもりは、この残りの人生を、気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、さんざん脳みそをしぼってもかまわないようなものなど、もはやなにもないのだ。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。わたしが書物にたいして求めるのは、いわば、まともな暇つぶしアミュズマンによって、自分に喜びを与えたいからにほかならない。それは、自己認識を扱う学問を、つまりは、りっぱに生きて、りっぱに死ぬことを教えてくれる学問を求めてのことなのだ。(p.166)