本の覚書

本と語学のはなし

【道元】撞(とう)の前後に妙声(みょうしょう)綿々たるものなり【辯道話】

ただ坐上のしゅのみにあらず、くうをうちてひびきをなすこと、たうの前後に妙声めうしやう綿々めんめんたるものなり。(p.11)

ただ坐禅修行のときだけではなく、くうを打って響きの出ることは、撞木しゅもくで(鐘を)一突きする前後にも、妙なる声が続いて絶えないのと同じである。(p.11)

 中野孝次セネカ本を読んで懐かしくなり、ちょっと道元を復活させてみた。
 「辯道話」はまだ理解しやすい。だが、『正法眼蔵』の本文に入っていけば、とうてい分からせる気がないだろうというような文章が続いて、嫌になるに違いない。分かってしまえば、案外同じことしか言っていないのかもしれず、それでうんざりするのかもしれない。


 分からないなりに道元が面白いのは、中国禅の重要なエピソードがほとんど集められているからだろう。プルタルコスが古典への入門となったように、道元は禅への入門となりうるのである。
 道元にとっては、修行がそのまま悟りである。修行は坐禅に限られない。日常生活を仏法にのっとって送れば、そこに悟りが現出する。洗面の仕方や楊枝の使い方(今の歯磨きであるが)などにも異常にこだわるのは、もしかしたらただの潔癖症だったのかもしれないけれど、それが仏の道だと信じていたからである。


 修行すれば心身が脱落する。世界が全て同時に成道する。修行をしなければそのような世界は開かれないが、修行をすれば過去・現在・未来を通じて、同時に開かれるのである。あるいは常に既に開かれつつ、説法をしていたのである。
 そのような事情が、鐘を突かなければ音はならないが、鐘を突いてみれば、それ以前にも以降にも、綿々と妙なる響きが響き渡るのが聞かれるのだとたとえられている。


 だが、おそらく道元は続かないだろう。一つやることを増やすだけで、バランスが恐ろしく崩れてしまうのだ。道元を加えるなら、何かを減らさなくてはいけない。道元と交換してもいいと思うものは、今のところない。


 英語に関しても、迷いが生じている。
 ニューヨークタイムズを続けるのか(週刊で1部220円)、少しでも節約するために、今持っている英文学のテキストの読解に戻るのか。
 文学の候補は3つある。先ずはシェイクスピア。かなり気合を入れることが必要。次にジェイン・オースティン。読めば面白いには違いないのだけど、一生の友とすることはできないかもしれない。
 最後にシャーロック・ホームズ。実は「ボヘミアの醜聞」の最初の数ページを読んでみたのだが、こんなことを書くと怒られるかもしれないけど、英語が簡単すぎてちょっと物足りない。できれば翻訳者と対決するくらいの気持ちで読みたいのだが、そのような関係を取り結ぶことはできないだろう。それでも、新聞をやめるなら、代わりにホームズを選ぶ可能性は高い。


 求人に応募するかもしれない。