本の覚書

本と語学のはなし

パイドロス/プラトン

 セネカプルタルコスの全作品を読破したいところだが、無職のため本の購入を控えているところであるから、しばらくは手元にあるギリシア・ローマの古典を読むことにする。


 プラトンでは、しばしばミュートスが語られる。語りえぬことを語ろうとするときに(そればかりではないかもしれないが)、神話のような寓話のような形式に託して、物語るのである。
 テウトという神が文字を発明した。それに対して、エジプトの王タモスは言う。

たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることになるだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。(p.134-5)

 文字が作るのは見かけだけの博識家であり、知者を自任するうぬぼれでしかない、というのである。古くて新しい問題なのだ。
 プラトンは苦心して多数の散文を残した人であるが、書かれた言葉にそれほど信頼をよせてはいない。ソクラテスの口を通して、こう言っている。

書かれた言葉の中には、その主題が何であるにせよ、かならずや多分に慰みの要素が含まれていて、韻文にせよ、散文にせよ、たいした真剣な熱意に値するものとしての話が書かれたということは、いついかなるときにもけっしてないし、さらには、口で話す言葉とても、吟誦される話のように、吟味も説明もなく、ただ説得を目的に語られる場合には同断であると考える人、――書かれた言葉の中で最もすぐれたものでさえ、実際のところは、ものを知っている人々に想起の便をはかるという役目を果たすだけのものであると考える人、――そして他方、正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書き込まれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、――そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生まれた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子と呼ぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、――このような人こそは、おそらくパイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。(p.142-3)

 他者の魂の中に直接書き込まれるような言葉、あるいはそこに胚胎するような言葉、そのような言葉で哲学することが、いわゆるディアレクティケーであったのだろう。それが本来の意味での弁論術でなくてはいけないのである。
 そしてそれは、この書のもう一つの主題であるエロースの術でもあるようだ。