本の覚書

本と語学のはなし

エセー2/モンテーニュ

 第1巻第26章から第57章まで収録。これで第1巻は終わりである。
 宮下志朗ラブレーと同時進行でモンテーニュを翻訳していた。信じがたいことである。過密なスケジュールのせいかどうか知らないけれど、「ぽつーんと」とか「つーんと」とか「かあっと」といった訳語がいたるところに登場する。おどけた感じの「です・ます」調が入り込むこともある。第48章「軍馬について」は「さて、このわたくし、文法家になりました」(p.269)と始まる。モンテーニュがそこまでハイな気分でこれを書いていたのかどうかは疑問である。
 関根秀雄のように何度も訳に手を加えるようなことはしないだろうけど、もう少し落ち着いた訳でも読んでみたい。


 学生時代に原二郎訳を読んだとき、強烈に印象に残った文章があったのだけど、それがどこにあったのか今まで見つけ出せずにいた。今回ようやくそれを再発見した。

わたしがまちがっているのかもしれないが、神の恩寵という特別なはからいによって、特定の形式は、神さまの口から、ひとこと、ひとこと命じられ、伝えられたのだから、わたしは、そうした祈りのことばを、いま以上に日常的に唱えるべきではないのかと、常々思ってきた。(中略)「主の祈り」こそは、わたしが、どこにいても唱え、変えることなく繰り返している、唯一の祈りなのである。(p.328-9)

 第56章「祈りについて」である。この章にあるだろうということは見当がついていたのに、それが見つからなかったのは、たぶん私が日記か何かに書くときに自分の言葉を付け加えて、それも含めてモンテーニュの文章であったように記憶違いをしていたせいだろう。「イエス自ら制定した祈りだけでは不十分であるかのように」というような文言があることを期待していたのである。
 過度なマリア信仰を目の当たりにした頃のことだから、モンテーニュの「主の祈り」中心主義に助けられたのである。


 「主の祈り」というのは、マタイ福音書やルカ福音書に載っている祈りで(ルカのは短いので、普通マタイの方が使われる)、イエス自身がこのように祈りなさいと教えたとされるものである。
 したがって、カトリックでもプロテスタントでも、それが中心であるか否かは別としても、共通で用いられる祈りである(翻訳は異なる)。
 カトリックの口語の祈りを引用しておく。

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。