本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】差異のほうをすんなり受けいれる【エセー1.37/36】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第37章(第36章)「小カトーについて」を読了する。
 小カトーはストア派の英雄であって、セネカもほとんど理想の賢人として描いている。カエサルと対立して、最後は北アフリカのウティカで壮絶な自殺をした。ウティカのカトーとも言われる。


Je n'ay point cette erreur commune de juger d'un autre selon que je suis. J'en croy aysément des choses diverses à moy. Pour me sentir engagé à une forme, je n'y oblige pas le monde, comme chascun fait; et croy, et conçois mille contraires façons de vie; et, au rebours du commun, reçoy plus facilement la difference que la ressemblance en nous. (p.229)

世間の人は、自分という存在にしたがって、他人に判断をくだすけれど、わたしはこうしたまちがいはしない。他人については、自分とは異なることがずいぶんあるんだなと思ってしまうのだ。自分が、ある型にがちっとはまっていると感じてはいても、だれもがそうするように、それを人々に押しつけることはなくて、異なる生き方がたくさん存在するのだと思って、そのように了解する。世間一般とは反対に、われわれのあいだの類似よりも、差異のほうをすんなり受けいれるのだ。(p.116)

 例によって、のらりくらりとこの章も始まる。多様性に開かれた思想もまた、モンテーニュの根本的な傾向である。
 ついでに言えば、訳文もまた、宮下志朗の典型的な文体を示しているように思う。


 プルタルコスの時代でさえ、小カトーの死はカエサルを恐れたのが原因だと唱える人たちもあった。プルタルコスが怒るのも無理はない。
 自分に真似の出来ないことは、正当に評価することも出来ない。それが人の常である。
 しかし、モンテーニュは正面から小カトーを論じようとはしない。5人の詩人たちを登場させるだけである。それはまた、彼の批評眼の確かなことを裏付けるようである。
 4番目のホラティウスと最後のウェルギリウスの差はわずかである。だが、その差こそはいかなるエスプリにも埋めることは不可能なのである、という。
 ウェルギリウスの詩だけを引いておこう。

his dantem jura Catonem. (p.232)

彼らに法をゆだねるカトー。(ウェルギリウス『アエネイス』8の670)(p.123)

 訳を見ても、何が凄いのか分からないだろうと思う。原文を見ても、もしかしたらそうかもしれない。
 モンテーニュが詩を愛した段階には3つあって、「最初には、陽気で、巧妙な流ちょうさに、次には、鋭く、ぴりっとした繊細さに、そして最後には、円熟した、常に変わらぬ力強さに心を打たれた」(p.122)のである。その最後の段階を代表するのが、ウェルギリウスである。
 最初のヒースは代名詞、男性複数与格で、「この人たちに」。次の動詞の間接目的語である。次のダンテムは「与える」という動詞の現在分詞、男性単数対格。最後のカトーと同格になって、修飾している。次のユーラは「法」を意味する中性名詞の複数対格。前の動詞の直接目的語である。最後のカトーネムは固有名詞「カトー」の対格。ここは火の神ウォルカヌス(ヘパイストス)がアエネアスのために作った楯の模様の描写であって、描かれた対象が対格で並べられてゆくのである。
 ヒース・ダンテム・ユーラ・カトーネム。わずか4語しか引用されていないにもかかわらず、その存在感はやはり圧倒的である。