本の覚書

本と語学のはなし

エセー1/モンテーニュ

 モンテーニュに初めて触れたは学生時代のことだった。岩波文庫の原二郎訳『エセー』を一気呵成に読んだ記憶がある。
 次は2020年の終り頃から2022年7月まで、2年近くかけて関根秀雄訳の全集を読んだ。『旅日記』や書簡なども含まれている。2020年9月に原典講読を始めることにしたのがきっかけだ(原典の進み方が遅いことに今さらながら気づいたが、まとまった分量を読むようになったのはつい最近のことであるから仕方ない)。
 続いて、2022年の末から2023年12月まで、再び関根秀雄訳の全集を読んだ。これで大分見通しがよくなった気がする。


 そして、今年は宮下志朗訳『エセー』を通読するつもりである。
 宮下訳の特徴は、第一に、底本に1595年版を使っていること。これまでエセーの底本といえば、ボルドー本に依拠したヴィレ=ソーニエ版を使うのが当たり前のことであった。とはいえ、グルネー嬢(なぜ「嬢」をつける習慣がなお残っているのかは知らない)による1595年版とモンテーニュ直筆の書き込みが残るボルドー本との間の差異は、素人にとってそれほど大きな問題になるものではない。
 第二に、書かれた年代を区別するために用いられる(a)、(b)、(c)の記号がないこと。モンテーニュ自身がつけた訳でもないのだし、宮下は常々これを邪魔くさいと思っていたそうだ。1595年版は完成した本であるので、そのような記号は省くことにした。ただし、注釈で言及されることはある。
 第三に、直接的な引用の場合は、引用の直後に著者名、作品名、引用箇所を括弧にくくって示し、参照したであろう書物や同時代の関連する書物については、章末の注に示していること。特に後者は、関根や原の注ではほとんど知りえないことなので助かる。プルタルコスセネカの影響もかなり把握しやすくなる。多くはヴィレから持って来た情報とは思うが、宮下の得意とする分野では、おそらく彼自身の独自性も発揮されている。
 第四に、訳文が読みやすいこと。軽くて、くだけすぎているようなところもあって、好みから言えば、私は関根の方に軍配を上げたいのだが、訳文の信頼性も考慮するならば、宮下を選ばなくてはならないだろう。

わたしは固い本とは親しく付き合いませんでしたが、プルタルコスセネカは別でして、両者からは、まるでダナイス(ダナイデス)たちのように、桶をいっぱいにしては、それを空けてと、たえず汲みあげているのです。そのなにがしかは、この紙〔『エセー』のこと〕に注ぎましたが、わたし自身には、まずほとんど染みこんでいません。(p.251)

 たとえば、これを関根秀雄は次のように訳している。

私はどんな固い書物とも交わりを結びませんでしたが、プルタルコスセネカだけは例外で、私はここに、まるでダナウスの娘たちみたいに、満たしたりこぼしたり致しながら、始終汲んでおります。そのうちの何かを私はこの書物のうちにいれているわけですが、しかし、私のうち[脳裏]にはほとんど何もいれてはいないのでございます。(全集2, p.42)

 次は原二郎訳。

私は堅い書物とはどれとも交際をいたしませんでした。ただ、プルタルコスセネカは別で、この二人からは、ダナイデスたちのように、絶えず桶を満たしたり空けたりしながら汲んでおります。そのうちのいくつかはこの書物にはいっておりますが、私自身の中にはほとんど何もはいっておりません。(1, p.277)


 前に、翻訳で日々モンテーニュ10ページ、セネカ10ページ、プルタルコス20ページを読みたいと書いていたが、既にそれはやめている。和書は1冊だけにしておく。
 その代わり、原典に力を入れたい。