本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】どこもかしこも堕落しているわけではなくて【エセー1.35/34】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第35章(第34章)「われわれの行政の欠点について」を読了する。


Le monde n'est pas si generalement corrompu, que je ne sçache tel homme qui souhaiteroit de bien grande affection que les moyens que les siens luy ont mis en main, se peussent employer, tant qu'il plaira à la fortune qu'il en joüisse, à mettre à l'abry de la necessité les personnages rares et remarquables en quelque espece de valeur, que le mal'heur combat quelquefois jusques à l'extremité, et qui les mettroient pour le moins en tel estat, qu'il ne tiendroit qu'à faute de bons discours, s'ils n'estoyent contens. (p.223)

世の中は、どこもかしこも堕落しているわけではなくて、身内が自分の手の内に残してくれた財産を、運命の女神のお気に召すかぎりは、ある種の希有で著しい才能を有しながらも、ときとして、不運によって貧窮のどん底にまで追いやられてしまった人間を、その窮状から救ってやりたいとか、あるいは、それでも満足しないなら、そうした連中には判断力が欠けているんだと思える程度には、せめて、もてなしてやりたいなどと、熱烈に願っている人だって存在するのではないだろうか。(p.105)

 モンテーニュの父には、働き手を求める人と仕事を求める人、物を売りたい人と買いたい人などの需給をマッチングをする役所を作ったらいいのにというアイディアがあった。
 モンテーニュはそこから、有能な人間が窮乏のうちに死ぬことがあるのも、われわれがそれを知らずにいるからであると考える。知ることさえできれば、まだまだ世の中堕落しきっているわけではないのだから、救いの手を差しのばす人もあるだろうというのである。
 その人とはモンテーニュ自身のことである、と考える人もある。関根秀雄と原二郎の注釈には、そう書かれている。
 久々に、理解するまで何度も読み返さなくてはならない文章であった。日本語訳も、たぶん意図的に原文の分かりにくさの幾分かを再現しようとしているのではないだろうか。


 この文章の後は、1588年以降の書き込みである。
 モンテーニュの父は記録魔であった(書くのは使用人であるが)。それを見れば、モンテーニュ家のあらゆる歴史が分かる。自分がその習慣を受け継がなかったのは何と愚かなことであったかと嘆くのである。
 モンテーニュは簡素なものであるが家政の記録を付けていたし、イタリアに旅行したときには『旅日記』を書いてもいる(半分は使用人の文章であるのだが)。しかし、そのことには全く触れていない。