本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】運命はわれわれよりも思慮深い【エセー1.34/33】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第34章(第33章)「運命はしばしば、理性とともに歩む」を読了する。
 運命は変転極まりなく、その行き着く先は人知で予測できるものではないが、ときには人間の思慮よりももっと思慮深くことをなすことがある。それをプルタルコスのごとく、時にはプルタルコスをも援用しつつ、豊富な例を引いて示すのである。


Et cet ancien qui, ruant la pierre à un chien, en assena et tua sa marastre, eust il pas raison de prononcer ce vers:


    Ταὐτόματον ὴμῶν καλλίω βουλεύεται,


la fortune a meilleur advis que nous? (p.222)

古代のある人は、犬に向かって投げた石が、継母ままははに当たって、死なせてしまったときに、《運命は、われわれよりも思慮深い》(メナンドロスの句、『ギリシア格言集グノーミカ』)という詩句を口ずさんだというが、もっともな話ではないだろうか。(p.100)

 珍しくギリシア語の引用である。『ギリシア格言集』から、喜劇作家メナンドロスの句を取り出してきて、その直後にモンテーニュ自身によるフランス語訳が付されている。
 モンテーニュギリシア語が得意ではないと言うけれど、ラテン語に比べればそうであるというだけで、実際にはある程度読めたのだろうと思われる。
 さて、宮下志朗の注釈を見ると、プルタルコスの『七賢人の饗宴』を参照のこととある。私もたまたまその箇所が載っている本を持っていたので、書き抜いておく。


πρὸς δὲ τὴν μετάθεσιν τὸ τοῦ νεανίσκου πέπονθα τοῦ βαλόντος μὲν ἐπὶ τὴν κύνα πατάξαντος δὲ τὴν μητρυιὰν καὶ εἰπόντος ‘ οὐδ᾽ οὕτω κακῶς.’ (147C)

しかし、それを取り替えて僭主についてそう言うならば、ある若者が犬に石を投げつけようとして継母にぶつけてしまってから、「まんざらこれも悪くない」と言ったというのにも似たことになるだろう。(p.200)

 細部は微妙に違うし、若者が言う言葉も異なる。
 おそらく『ギリシア格言集』を読んでいて、この箇所*1を思い出し、メナンドロスの格言を若者が口ずさんだことにしたのではないか。
 注意するべきは、モンテーニュは決して意図せざる継母殺しを、運命の思慮深き導きと賛嘆したのではないということである。プルタルコスの文章はちょっと分かりにくいけれど(原文はなかなかひどい)、モンテーニュは継母を僭主とみなしていたのであろう。
 モンテーニュの文章だけ見ると、それは分からない。その必要があったかどうか知らないが、意図的な韜晦であるのかもしれない。


 先週末に履歴書を送ったところからは、今日、ハローワークのマイページのメッセージ機能を使って、不採用通知が来た。英語を使う機会があるので向いているかもしれないし、時給はかなり安いから敷居は低いかもしれないと思っていたが、面接にも至らなかった。
 大分前に申し込んでいた派遣の仕事は、求人がウェブから消えてしばらく経つけれど、何の連絡もない。求人自体が立ち消えになったにしろ、他の人に決まったにしろ、連絡も寄越さないのは、二度と申し込まないでくれということだろうか。
 スタート地点に戻った。出来る仕事はないような気もするし、雇ってくれるところはさらになさそうだ。どうしたものか。

*1:プルタルコスの方の注には、同じ話が『心の平静につて』467Cにも見えると言うが、そちらは持っていないので、どういう文脈で使われているのかは分からない。