本の覚書

本と語学のはなし

ローマの哲人 セネカの言葉/中野孝次

 中野孝次セネカの研究者ではない。西洋古典学の専門家ですらない。もともと徳に関心があったから、あるとき岩波文庫の茂手木元蔵訳を手にしたのである。
 それが面白くて、同じく茂手木訳の『道徳論集』と『道徳書簡集』(ともに東海大学出版会)も入手した。夢中で読んだ。

が、読むにつれ、茂手木訳にはどうも意味の通じないところや、明らかに誤訳と思われるところが多々あるのに気づき、読むほどに、開拓者への感謝とともに不信の念が募っていった。が、他に日本語訳はなし、わたしはラテン語はぜんぜん出来ないので、やむを得ずドイツからドイツ語訳を取寄せた。わたしは大学は独文科で、長いあいだドイツ語教師をしていたから、ドイツ語なら読める。(p.4)

 茂手木訳に対する正直な感想は、専門家でないからこそ遠慮なく書けたのだろう。
 当時はまだ新訳が出版されていなかったので、ドイツ語訳を取寄せて読んだ。原文の力を感じるためには、かえってその方がよかっただろうと思う。
 『道徳論集』と『道徳書簡集』の中から、著者による抄訳がたくさん載せられている。それらは3種類のドイツ語訳からの重訳である。セネカには鋭い修辞的な警句が多いので、抄訳にコメントを付していくという編集のスタイルがぴったりはまる。
 初め岩波書店から刊行され、後に講談社学術文庫に収められた。続編に『セネカ 現代人への手紙』がある。もっぱら『道徳書簡集』を扱っているようだ。こちらは文庫化されていない。

わたしも六十年以上の読書生活をしてきて、セネカの言葉は正しいと保証する。多読はわたしもしたが、それは精神に何の痕跡も残さなかった。セネカが続けて言うように、


  絶えず薬を取り替えるくらい、治療を妨げることはない。(「手紙」2-3)


のだ。セネカは文章の終りを必ずこういう箴言ふうの物言いで締めくくるが、どれも格言として心に残るような言葉だ。(p.91)

 中野孝次が「多読は精神に何の痕跡も残さなかった」と言っているのには驚いた。
 私には多読や乱読を誇るほどの読書遍歴はないけれど、ほとんどは忘れ去ったか意識の奥底に沈み込んでいる。私の人生に残されたわずかな時間は、ますます同じものばかり読むことに費やされるのだろう。


 『論語』と並んで、道元や唐の禅などとの比較がよく出てくる(ときどき、『徒然草』やモンテーニュも)。中野孝次とは、関心のありかが似ているのかもしれない。もう持っていないが、中野の『道元断章』を読んだこともある。
 だが、私は東洋思想や禅や、殊に道元にはもう戻らないだろう。