本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】きみがもつれさせた結び目を【エセー1.33/32】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第33章(第32章)「命を犠牲にして、快楽から逃れること」を読了する。


Je suis d'adviz (dict-il) que tu quites cette vie là, ou la vie tout à faict; bien te conseille-je de suivre la plus douce voye, et de destacher plustost que de rompre ce que tu as mal noüé, pourveu que, s'il ne se peut autrement destacher, tu le rompes. Il n'y a homme si coüard qui n'ayme mieux tomber une fois que de demeurer tousjours en branle. (p.218)

セネカはこう述べる。「きみは今の人生から抜け出すか、さもなくば、人生そのものから出ていくしかないというのが、わたしの意見だ。でもまあ、穏やかな方の道を進むことを勧めるよ――きみがもつれさせた結び目を、ばっさり断ち切るよりは、ほどいていくことをね。ただし、どうにもほどけないならば、それを断ち切るしかないがね。どんな臆病者だって、いつまでも宙ぶらりんでいるくらいなら、いっぺんに落ちてしまうほうがありがたいからね。」(p.94)

 これはセネカの『倫理書簡集』22.3からの引用で、原文は次のとおり。


Censeo aut ex ista vita tibi aut e vita exeundum. Sed idem illud existimo, leni eundum via, ut quod male inplicuisti, solvas potius quam abrumpas, dummodo si alia solvendi ratio non erit, vel abrumpas. Nemo tam timidus est, ut malit semper pendere quam semel cadere. (22.3)

 モンテーニュは、ここでは正確にラテン語をフランス語にうつしているようだ。
 「ex ista vita」は「(きみの)そのような生から」、次の「e vita」は何の限定辞もなく、ただ「生から」である。享楽の生活を去るか、さもなくば人生そのものから去るか、セネカはルキリウスに迫る。自殺もまた、有力な選択肢なのである。
 厳しい言葉ではあるが、セネカストア派の言説を持ち出したのではなく、ルキリウスが愛するエピクロスの手紙によっている。モンテーニュはそのことにちょっと驚いている。


 モンテーニュキリスト教徒として当然自殺を罪と信じていた、と考えてはいけない。
 第2巻第3章「ケオス島の習慣」を見ると、「もっとも意志的な死こそが、いちばん美しい」(p.49)とか、「わたしには、自死への誘惑のなかでも、苦痛と、悪しき死は、もっとも許されるものだと思われる」(p.69)とか言っているのである。


 話は変わるが、昨日さっそくプラトンパイドロス』の出だしの原文を眺めてみた。
 ギリシア語でこんなに素直な文章が書けるのかと驚いた。ソクラテスパイドロスが出会って先ず交わした日常的な会話だから、当然といえば当然である。だが、プラトンの文章は基本的にそんなにひねくれたものではないだろう。学生時代にいくつも原文で読むことができたのは、中級者向けにちょうどよいからである。おそらく同じ時間を使っても、プルタルコスの倍以上ははかどるだろうと思う。
 ただし、直ちにプラトンへ切り替えるのではない。プルタルコスをやめる決心をした場合の、最有力代替候補に登録されただけである。