本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】こちらに送り届けようと思うだけの光で【エセー1.32/31】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第32章(第31章)「神の命令に口出しして判断するのは、慎重にしなくてはいけない」を読了する。
 彼は形而上のことには立ち入らない。キリスト教徒であれば、幸も不幸も神慮と考え、人知を越えることは神に感謝しつつ受け取ればそれでよいのである。
 宗教戦争の時代、戦いに勝てば神の承認として喜び、自派の信仰の土台としようとした。これにモンテーニュは反発する。


Il se faut contenter de la lumiere qu'il plait au Soleil nous communiquer par ses rayons; et, qui eslevera ses yeux pour en prendre une plus grande dans son corps mesme, qu'il ne trouve pas estrange si, pour la peine de son outrecuidance, il y perd la veüe. (pp.216-7)

われわれは、太陽が、その光線によって、こちらに送り届けようと思うだけの光でもって、満足しなければいけない。太陽からじかに、もっとたくさんの光をもらおうとして、上を見上げる人間は、自分の傲慢さの罰として視力を失っても、これを異様なことと思ってはならない。(p.90)

 このたとえは、プルタルコスの『好奇心について』に出てくるらしい。原文を見ていないから、モンテーニュがどの程度変形しているのかは知らない。


 モンテーニュを学ぶ上で、プルタルコスを読んでおいた方がよいことは、言うまでもない。だが、ギリシア語で読むべきかというと、そんなことはない。モンテーニュ自身はフランス語訳で読んでいた。われわれもまた、『モラリア』も『英雄伝』も日本語で全部揃えることができる。
 それに、プルタルコスギリシア語を読むのはなかなか骨が折れる。ちくま文庫プルタルコス英雄伝(中)』の解説をぱらぱらめくっていたら、村川堅太郎がその厄介さについて長々と書き連ねていた。
 セネカラテン語は割と読みやすいので続けるつもりでいるが、プルタルコスはどうしようか迷っている。今読んでいる小編が終わったら、一旦プラトンを試してみるかもしれない。
 プラトンならばロウブ叢書で出ているものは全部持っているはずだし、思想的に入り組んだところを除けば、美しく読みやすい文章であろう。問題は、現在の私は、形而上学的なことにほとんど関心がないということである。