本の覚書

本と語学のはなし

プルタルコス英雄伝(上)/プルタルコス

 プルタルコスの現存する『英雄伝』の内、ちくま文庫の3巻本に収められたのは、半分くらいだそうだ。
 『対比列伝』とも言われるとおり、本来はギリシアとローマの歴史的人物(必ずしも英雄というわけではない)をペアにして、両者の伝記を並べ、最後に比較論(ないものもある)を配置するという構成である。この本ではこの組み合わせをバラし、特に有名な人物を選択し、ギリシアとローマに分けて年代順に並べ直し、比較論は元の組み合わせの両方を採用した場合にのみ残された(省略したものもあるようだ)。
 この本で『対比列伝』というタイトルを使わなかったのは、そのような事情によるが、『英雄伝』の方がはるかに売れるからということもあるらしい。


 上巻では、テセウス、リュクルゴス、ソロン、テミストクレス、アリステイデス、ペリクレス、アルキビアデス、デモステネスを扱う。
 テセウスは歴史というより神話の人であるし、リュクルゴスもソロンも伝説的な要素が濃いのではあるが、資料のある限り、プルタルコスは彼らについてもためらいなく語るのである。


 ときどき分かりにくい文章がある。翻訳技術のせいとは言えないだろう。おそらくプルタルコスの原文が分かりにくいにちがいない。
 若い頃には修辞学を学び、作文の課題のような文章も残しているが、多産な彼の筆は次第に饒舌さを増したようである。名文とか美文というよりは、魅力ある悪文へと傾くのである。


 『デモステネス』2にラテン語について書かれたところがあるので、引用しておく。

だが私は小さな市〔カイロネイア〕に住んでいる。私が居なくなってこの市が一層小さくなることがないようにと、この地に恋々としているのである。またローマやイタリアの方々の市で日を送っていたときにも、政治向きの仕事や哲学上の弟子の教育のためにラテン語を習う暇がなく、のちに年をとってからローマ人の著作を読み始めたのであるが、そこで私は不思議な、しかし真実の体験を得た。言葉に基いて事物を知りそれに精通するというより、むしろすでに何らかの形で経験している事柄を基にし、それを通して言葉の意味をも理解するものだということを体験したのである。ラテン語による叙述の美しさ、歯切れの良さ、比喩、声調その他この言語のもつさまざまの美点を学ぶことは雅趣に富んだ楽しいことだとは思うが、そのことのための練習は容易でない。もっと多くの暇があり、この種の錬磨のために未だ月日が残されているような人々にとっては別であるが。(p.396-397)

 ラテン語を学んだのが歳を取ってからのことであるせいか、満足できるレベルにまでには到達しなかったらしいが、ラテン語で書かれたものを読み、その美しさを感じてはいたようである。


 最近、和書では、少なくともモンテーニュ10ページ、セネカ10ページ、プルタルコス20ページを読むことにしている。たぶんそれで全作品を1年で1周できるのではないかという計算である。
 案外負担が大きいようである。セネカプルタルコスを続けるには、お金だけでなく、時間の使い方も大きな問題なのである。
 ちなみに、先日某所に履歴書を郵送した。仮に採用されたとする。経済的にはいつでも破産と隣り合わせであろう。時間は多少余裕があるにしても、やりたいことを全てやれるほどあり余りはしないだろう。