本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】自分でも分からないほど【幸福な生】

 セネカの『幸福な生について』を読んでいたら、2か所、テキストに書き込みがしてあった。時々うっすらと記憶が蘇ることもあるが、いつ読んだのか思い出すことができない。
 テキストには北沢書店のラベルが貼ってあるから、ネットで購入したものではない。おそらく学生時代に購入して、学生時代に読んだのだろう。授業で『アポコロキュントシス』を扱ったことがあるので、その前後のことかもしれない。
 汚れから判断すると、『幸福な生について』は全部読み切っている。次に『摂理について』を始めたようだが、これは直ぐにやめた。省略の多い切り詰めた修辞に疲れたのか、それとも当時参照していたはずの茂手木訳がいささか頼りなかったのだろうか。セネカを読んだ記憶はあやふやなのに、茂手木訳に絶望したことははっきり覚えている。

Illo ergo summum bonum escendat, unde nulla vi detrahitur, quo neque dolori neque spei nec timori sit aditus nec ulli rei, quae deterius summi boni ius faciat ; (15.5)

だから、最高善は、いかなる力も引きずり下ろすことのできない高みへ、苦痛や希望や恐怖が近づけず、最高善の特権をいささかでも損なうものが近づけない高みへと登らせなければならない。(p.164)

 翻訳は茂手木元蔵ではなくて、新訳の大西英文のものである。
 「aditus」のところに「noun ?」と書いている。形だけからいえば、名詞かもしれないし、分詞かもしれない。格変化は異なるものの、主格では区別がつかない。
 だが、これはどう見ても名詞である。茂手木も大西も「近づく」という動詞を使って訳しているが、それは翻訳の方便である。
 なぜここで迷ったのか、今では理解しがたい。確かに写本に乱れのあるところで、不自然な文章に見えなくもない。だが、苦痛にも希望にも恐怖にも、そこへの「アクセス」はないということであり、分詞の可能性があるとは思えない。

Cur trans mare possides ? Cur plura quam nosti ? (17.2)

なぜ海の向こうに地所を所有している。なぜ自分でも分からないほど多くの地所をもっているのだ。(p.168)

 「nosti」のところに、少し判別しがたいが、「E. Mor 211 2sg」というようなことが書いてある。一度消した文字の上に書き直したようだが、下には「 ?」とあったようだ。
 前半部分は何のことか分からない。当時参照した何かの本だろうけど、現在持っているものには該当するものがない。「2sg」は2人称単数のことだろう。実際これはnoscoという動詞の直説法・完了・2人称単数の形である。
 なぜこの解析にこれほど苦労していたのか、今となってはまったく理解できない。完了形の語幹の-vi-がしばしば欠落することを、当時はまだ知らなかったのだろうか。多少特殊な点はあるにしろ、英語の手頃な辞典(Cassel)にもGildersleeve & Lodgeの文法書にも、「nosti」という縮約形のことは書いてある。『羅和辞典』しか見ていなかったのかもしれない。


 懐かしいというよりも、なんと能力のない学生であったことかと、嘆きたくなる。英語もまともにできない人間が、下手に古典に手を出し失敗するという、典型的な例であったろう。
 古典を学ぶこと自体は能力の有無にかかわらず悪いことではないし、英語力の完成を待ってから学び始める必要もないが、自分の能力をよく吟味した上で、関わり方を慎重に判断するべきである。