本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】まるで手が穢れているかのように【エセー1.30/29】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第30章(第29章)「節度について」を読了する。
 徳にも節度が必要なのだというところから説き起こし、夫婦間の快楽には節度が必要であるとか、人間の英知は快楽を減らすために一生懸命になっている、「もしもわたしが、なにかの学派を率いていたならば、もっと別の自然な道、つまり、真実の、快適にして清らかな道を選んだのではないだろうか」とエピクロス的なことを言い、心の病も肉体の病も医者たちは苦痛を与えて癒やそうとすることを嘆き、このことは人間を犠牲に供する宗教儀式にも通じるところがあるのではないかと飛躍し、新世界の事情が紹介される。
 短い章ながら、モンテーニュの思想が危うい綱渡りも辞せずに、次々と自らを試してゆく。最後にたどり着いた新世界から、そのまま次の章「人食い人種について」へと思考をつなげてゆく。いかにも『エセー』らしいことのように思われる。


Comme si nous avions l'attouchement infect, nous corrompons par nostre maniement les choses qui d'elles mesmes sont belles et bonnes. Nous pouvons saisir la vertu, de façon qu'elle en deviendra vicieuse, si nous l'embrassons d'un desir trop aspre et violant. Ceux qui disent qu'il n'y a jamais d'exces en la vertu, d'autant que ce n'est plus vertu, si l'exces y est, se jouent des parolles : (p.197)

まるで手が穢れているかのように、われわれは、それ自体は美しくて良いものをいじくってだめにしてしまう。徳もそうであって、これをあまりに手荒く、激しくつかんだりすれば、そのために悪くなりかねない。「徳に行き過ぎはない。行き過ぎなどがあれば、もやは徳ではないのだから」などとのたまう人々は、ことばを弄んでいるにすぎない。(p.48)

 冒頭部分の引用である。
 「徳に行き過ぎはない」というところ、宮下の注には、ストア派の考えを念頭に置いているとある。そして、参考としてセネカ『幸福な生について』の一節が引かれている。
 セネカであれば喜んで全てを受け入れていたわけではない。誰もが閉口しそうなところでは、モンテーニュもまた閉口していたのだ。


Agedum, virtus antecedat, tutum erit omne vestigium. Et voluptas nocet nimia ; in virtute non est verendum, ne quid nimium sit, quia in ipsa est modus. (13.5)

だから、さあ、徳を先に立たせて歩ませるがよい。一歩一歩、足取りは着実であろう。また、過度の快楽は害あって益がない。それにひきかえ、徳は何か過度なものを危惧する必要はない。徳そのものに節度があるからである。(p.160)

 宮下が指摘したセネカの文章は、たまたま私も最近読んだばかりのところである。
 セネカプルタルコスを読んでいると、いたるところでモンテーニュと繋がってくる。これがなかなか楽しい。


 セネカプルタルコスを続けるには、時間とお金が問題である。そう何度か書いてきた。
 3人主役がいるようで、たしかにしんどい。仕事を始めれば、なおさら時間は限られる。でもまあ、欲張らなくたって十分楽しめるだろうとは思う。モンテーニュが好んだような、あちらをつまみこちらをつまむという読書法だって、いいのかもしれない。
 お金の件も次の仕事によって左右はされるが、生活の質を維持したいなどと言っている時点で、低所得は確定したようなものである。毎月赤字になるということも想定している。だが、そういう生活を選ぶのであればなおさら、ここにこそお金をつぎ込まなくてはいけないのではないかと思う。