本の覚書

本と語学のはなし

饗宴/プラトン

 悲劇作家アガトンの祝勝会で、参加者の銘々が(喜劇作家のアリストパネスやその名を冠した対話編もあるパイドロスなど)エロス讃歌を披露する運びになった。
 エロスはギリシア神話の中で立派に神格を認められている存在ではあるが、どうも今一つ捉えどころがない。ヘシオドスは太古の昔から存在すると言っているが、一般的にはアプロディテ(ローマのウェヌス、英語ではヴィーナス)の息子だとも言われる。ローマ名のクピドは英語読みでキューピッドとなる。だが、赤ちゃんのような姿で表象されるのは大分時代が下ってからで、昔は青年神として描かれていた。
 彼の権能である愛は、肉体的でもあれば精神的のものでもある。したがって、この饗宴においてもその辺りをうろうろと経巡る。だが、それがプラトンの傾向だからか知らないが、話の中心は教育としての少年愛となりがちなのである。


 ソクラテスもまた、「僕だってつねづね、愛に関することのほかは、なんにもわかっていないと主張しているほどだから」(p.55)と言うのであるが、必ずしも知を愛するピロソピア(フィロソフィー)のこととも限らないようだ。
 アルキビアデスは証言する。

たとえば、ソクラテスはいつも美少年を愛し、常に彼らのために多忙であり、これに夢中になっている。(p.137)

 彼はソクラテスが自分に気があるのだと思い込み、自らもまた「ソクラテスの意に従いさえすれば、彼の知っている事は何でも聴き得る途が開けたものと思って」(p.138)、これを幸運と喜んだ。ところがある晩、ソクラテスを引き止め、一つの床に一緒に横になり、腕を絡ませもしたが、結局その青春美に屈することはなかったという。
 ソクラテスの産婆術はあくまで精神的受胎を前提としたもののようであるが、必ずしも厳格な禁欲主義の人と考える必要はないかもしれない。


 『饗宴』は文学的要素も多分に含み(それゆえギリシア神話の知識も必要とはなるが)、とても親しみやすい哲学書である。
 だが、岩波文庫版は訳がちょっと古臭い。解説も昔の学者風だ。無条件にプラトンおよび『饗宴』をほめちぎり、「一言一句といえども熟考されざるものなく、したがって寸毫も増減の余地なきこと」(序説、p.34)とまで言う一方で、ソクラテスプラトン以外の評価は大分低く、本物以外は相手にしないと言いたそうなのである。
 翻訳はたくさん出ているので、他のバージョンで読むことをお勧めする。