本の覚書

本と語学のはなし

【フランス語】わたくしのものは何も差し上げません【エセー1.29/28】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第29章(第28章)「エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーによる二九篇のソネット」を読了する。


Madame, je ne vous offre rien du mien, ou par ce qu'il est desjà vostre, ou pour ce que je n'y trouve rien digne de vous. (p.196)

奥さま、ここであなたには、わたくしのものは何も差し上げません。と申しますのも、それはすでに、あなたのものとなっておりますし、それでなくても、あなたにふさわしいものなど何も見つからないからでございます。(p.45)

 この章はラ・ボエシの詩を挿入するため、ギッセン伯爵夫人、マダム・ド・グラモンに捧げた短い献呈文である。
 モンテーニュが1572年にラ・ボエシの作品集を刊行したとき(これはマダムの親族に捧げられた)、『自発的隷従論』とこのソネット(および『正月勅令に関する覚書』)は除かれた。『自発的隷従論』(および『覚書』)は政治的、思想的な理由だろう。ソネットは、ラ・ボエシの妻となる人を歌ったものが作品集に収められたので、若い頃に別の恋を歌ったソネットの方は見送られたのかもしれない。
 モンテーニュの生前に刊行された『エセー』では、献呈文の後にラ・ボエシのソネットが掲げられていた。しかし、1588年以降の書き込みには「これらの詩は、他の場所に見られる」とあり、詩には削除を指示する斜線が引かれた。別の作品集の刊行を予定していたと考える人もあるようだ。
 現在では献呈文だけが残り、文字どおり『エセー』はモンテーニュのものになったのである。*1


 マダム・ド・グラモンは、「美しきコリザンド」と呼ばれた才色兼備の人。
 カトリック側の領袖ギッセン伯と結婚したが、1580年、彼は改革派とのラ・フェール攻囲戦で戦死する。
 「わたしは彼の多くの友人たちに交じって、ムシュ・ド・グラモンの遺体を、彼が殺されたラ・フェールのお城からソワッソンヘとお送りしたことがある」(『随想録』3.4、関根訳全集6、p.111)。折しもモンテーニュはラ・フェールのマティニョン元帥の陣営にいたのである。これはモンテーニュがイタリアに旅する直前のことであるが、『旅日記』は最初の部分が欠けているので、なぜ彼がそこにいたのかは分からない。
 後に夫人はナヴァール王(後のアンリ4世)の愛人となる。影響力も大きかったようだ。
 「私はギッセン夫人に宛てて、私がナヴァール王をマティニョン元帥に近づけようとする努力に便宜をお与え願いたいと書き送りました」(『書簡』21、関根訳全集9、p.106)。これは1585年に、モンテーニュがマティニョン元帥に送った書簡の一部である。

*1:関根訳の全集ではソネットも訳されている。