本の覚書

本と語学のはなし

プラトン書簡集 哲学者から政治家へ/プラトン

 プラトンの書簡として残されているのは13通。いずれもシラクサに関連する人々へ宛てたものである。
 真作かどうかについてはやかましい議論がある。多くの学者が第7書簡と第8書簡は本物と認め、第1書簡は偽作と断じているようだが、その他のものについての判断は一様でない。
 訳者の山本光雄は、第1書簡の他は全て本物であるという立場を取る。
 私の立ち入るべき領域ではないけれど、どちらの側に立つにしても、多少の信仰を含んでいることだろう。


 プラトンは3回シラクサに赴いている。
 僭主の家系に連なるディオンという哲学青年と親交があり、政治指導あるいは哲学教授のために招かれたようである。
 だが第2回旅行中に、ディオンは僭主ディオニュシオス2世によって追放される。第3回旅行の時に、プラトンはディオンのために条件を提示し了承されたが、反故にされる。ディオニュシオスを哲学的吟味にもかけてみたが、落胆する。僭主と決裂してアテナイへ帰ることになるのである。
 その後ディオンはシチリアに戻り、ディオニュシオスを駆逐してイタリアに逃れさせるが、やがて反対派に暗殺される。数年後、ディオニュシオスは再びシラクサの僭主となった。


 僭主と交わりを持つことは、プラトンの哲学と整合性が保てるのであろうかという疑問が当然起こる。プラトン自身は第7書簡で、ディオニュシオスに招かれ、3度目にシラクサを訪れたときのことを振り返ってこう言っている。

 こういうわけで私は彼〔ヂオニュシオス〕の言に従うべきか、それともどうすべきかと考慮し、躊躇しましたが、それにもかかわらず、もし人が法や国制について考えたことを実現しようといつか企てるのであれば、今こそ試むるべきであるという考えが勝ちました。ただの一人をでも十分に説得したならば、すべての善きことを私は仕遂げたことになるだろう、と思ったからです。
 さて、このような考えと勇猛心とをもって国から私は船出しました。しかし、人々の想像したような動機によってではありません、むしろそれは私がなんのことはない、たんに口舌の徒にすぎなくてみずから進んではいかなる行動にもけっして手を触れることはないだろうと、自分が自分自身に思われはしないか、また第一には、小さくない危険のうちにほんとうにあったヂオンの友情や同志愛を裏切ることになりそうだと、自分自身に対して自分をいちばん恥じたからなのです。(p.40-41)

 プラトンはむしろ自身の哲学の実現のために、かつはまたディオンとの友情のために自分自身を恥じることがないために、僭主のもとへと赴いたのである。
 しかし、理想はあえなく潰え、ディオンどころか自分の身をも危うくして、ようやくシチリアを逃れる結果となった。


 プラトンが奴隷に売られたという伝説があるのは、第1回旅行の時である。先代のディオニュシオス1世の頃のことだ。