本の覚書

本と語学のはなし

【ギリシア語】おそらく祈りの域に属するでしょう【子供の教育】

 8月下旬に思い立ち、ホメロスを休止してプルタルコスを始めた。最初に取り組んだのは、『モラリア』の最初に置かれている『子供の教育について』。ようやく読み終えた。
 真作ではないとされているが、ルソーの教育論にも影響を与えるなど、昔は高く評価されていた。
 一番苦労したのは単語である。オックスフォードの中型辞典に載っていないものがたくさんある。アシェットの希仏辞典を併用するようになった。
 真正のプルタルコスの文章に移っても、事情は似たようなものかもしれない。『モラリア2』の月報を見ると、広田昌義(フランス文学者。ここではプルタルコスモンテーニュの関係に触れている)が河野與一『プルターク「倫理論集」の話』(岩波書店)の前書きから次の文章を引用している。「プルタルコス哲学史にも文学史にも三流に伍する文人である。[中略]思想は折衷学派に属して創見に乏しく、史観は雑多な文献に養われて透徹を欠いている。文体にいたっては簡素を離れ流麗を逸し雅俗混淆を憚らず放漫蕪雑に陥っている」。
 河野は『対比列伝』(いわゆる『英雄伝』)を全訳し、『モラリア』(河野の言う『倫理論集』)をもすべて翻訳しようとした人である。プルタルコスが好きでなかったはずはないと思いたいのだが、私は河野の本を読んでいるわけではないので、本心であるのか、ポーズとしての卑下であるのかは分からない。いずれにしろ、自分が取り組むものを貶したからといって、安全な場所を確保できるわけではない。


 順番どおりに進めるならば、次は『どのようにして若者は詩を学ぶべきか』なのだが、『モラリア2』(原文も翻訳も、私が持っているのは2巻までである)の方に短い作品がいくつかあるから、そちらを先に読もうと思う。
 という訳で、明日からは『徳と悪徳』。翻訳は5ページにも満たない。

モンテーニュ『旅日記』より

 モンテーニュの『旅日記』を読んでいると、ローマでフランス大使と食事をしたとき、同席した学者たちとプルタルコスのアミヨ訳について話をしたことが記録されている。
 モンテーニュは、プルタルコスが曖昧な場合には、アミヨは真実らしい意味を与えて筋を通してくれるといって、大いにアミヨを持ち上げるのだが、学者たちの評価は低い。
 その理由として二つの例が挙げられている。そして、その一つが『子供の教育について』の一文である。

もう一つは、「子供の教育」に関する論文の終わりの方で、「これらの躾の遵守は、勧告コンセイユするよりもむしろ希望すエスペレべきであろう」とある件である。これについて彼らは言う、「このギリシア語は《望ましいエスペラーブルというより願わしいデジラーブルことである》という意味にとれる。しかもこれは他にも出てくる一種の諺なのである」と。(p.146)

 モンテーニュは一応学者たちには兜をぬぎ、「心から彼らの結論に服した」と言っているが、本当のところはどうだろう。あまりに些末なことと思っていたかもしれない。


 この文章がどこにあるのか、関根訳にもプレイヤード版にも注釈がない。しかし、モンテーニュが記すとおり、ほとんど最後に置かれた次の言葉がそれにあたるように思われる。
 順にロウブの原文、ロウブの英訳、西洋古典叢書の瀬口訳である。

τὸ μὲν οὖν πάσας τὰς προειρημένας συμπεριλαβεῖν εὐχῆς ἴσως ἢ παραινέσεως ἔργον ἐστί· (14C)

Now to put into effect all the suggestions which I have given is province of prayer, perhaps, or exhortation. (14C)

こまでに述べてきたすべての勧告を受け入れることは、おそらく祈りの域に属するでしょう。(p.43)


 英訳と日本語訳がちょっと違うのは、違うテキストを訳しているからである。
 ロウブと西洋古典叢書の注釈も引用しておく。

Some word like ἐπιμελείας has probably been lost after προειρημένας. Two MM. have παραινέσεις instead of ἢ παραινέσεως in the next line, and some editions have preferred it.

ビュデやトイブナーに従い、συμπεριλαβεῖν παραινέσεις εὐχῆς ἴσως ἔργον ἐστιを読む。

 「こまでに述べてきたすべての」の後になにか名詞(女性・複数・対格)が抜けているので、そこに「配慮」のような言葉を補うか、もしくは後に出てくる「または勧告の」の「または」を削り、「勧告の」を複数・対格の形に変えて、前にくっつけるか(2つの写本がこれを支持する)、という操作が必要になる。
 前者を採用したのが英訳。ロウブを底本としながら、ここではビュデやトイブナーの校訂に従ったのが和訳である。


 モンテーニュの議論に出てくる仏訳は、ロウブの本文と同じものを訳したものと思われる。大きな違いは、ἢ を or と取るか than と取るかというところ。
 モンテーニュの学者が、εὐχῆς と παραινέσεως の意味の取り方でアミヨをけなしている理由は、私には分からない。アミヨが「エスペレ」、学者が「デジラーブル」と訳した前者は、「祈りの」ということであり、アミヨが「コンセイユ」、学者が「エスペラーブル」と訳した後者は、「勧告の」ということである。
 したがって、モンテーニュが何を納得したのかも、私には分からないのである。