本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集7 モンテーニュ随想録7/モンテーニュ

 昔は一度読んだ本をもう一度読むということはほとんどなかった。ところが最近は再読率が非常に高い。遠い昔に読んだものもあれば、最近読んだばかりのものもある。何度もくり返し読むものもある。そういう本はこれからもずっと読み続けるだろう。
 モンテーニュの『エセー』に初めて触れたのは大学生の頃である。岩波文庫の原二郎訳を一気に読んだ。
 どのくらい前かは忘れたが、原文に挑戦した。すぐに挫折した。翻訳も投げ出した。
 今回原典講読が続いているのは、その間に英語とフランス語でたくさん小説や新聞記事などを読んだおかげだろう。
 翻訳も楽しめているのは、歳をとったせいかもしれない。関根訳の解説が初心者にはありがたかったからかもしれない(老荘思想に結びつけたがる癖はあるが)。白水社の全集を一度読み終えて、すぐさま再読に取りかかったほどである。毎日10ページを日課にしている。
 『随想録』はこれでおしまい。全集の残る2冊は『旅日記』と手紙等の資料である。それを終えたら、また間髪を入れずに、今度は宮下志朗訳を通読する予定である。

わたしは有用な事柄に関してさえ、セネカのようにくどくいうのはきらいである。問題ごとに、いちいち一般論の場合に用いる原理や仮定を長々と繰り返したり、普遍共通の論拠や理由をその都度新しく述べたてたりする、彼のストア塾における習慣は嫌いである。(3. 9「いっさいは空であること」、p.38)

 私はセネカの道徳書簡集を読んだことはないが、モンテーニュが道徳論集より道徳書簡集を好んだのは、もしかしたら一つ一つが短い分、くどさが軽減されているからだろうか。
 モンテーニュはどんなに好きな人でも、ソクラテスでさえ、手放して崇拝することはない。

幾たびとなく、わたしは、自分の家にいながら、今夜こそ人に裏切られなぐり殺されるのではなかろうかと思いながら、せめて「こわい!」と思う間もなくひと思いに死なせてほしいものだと運命に乞いながら、枕についた。そして、主の祈りをしてから、


   ああこの美しく耕された我々の田園も、
   いよいよ乱暴な兵隊に奪い取られるのか!(ヴェルギリウス


と号泣した。(3.9「いっさいは空であること」、p.55)

 モンテーニュが生きたのは、宗教戦争の内乱のまっただ中である。命を奪われても不思議でない状況にも何度か陥った。
 モンテーニュも主の祈りを祈るのである。モンテーニュも号泣するのである。
 ウェルギリウスの引用は『牧歌』から。詩人自身が巻き込まれた農地没収に言及したものである。


ソクラテスはその最期にのぞんで、追放の宣告を死刑の宣告よりも悪いものと考えたが、わたしはそう考えるほど頽齢にいたるまいし、それほど自分の国に執着もしないであろう。こういう聖賢たちの御生涯の中にはさまざまなお姿が拝せられるが、わたしはそれらを愛情よりはむしろ尊敬をもって見る。いや、なかにはあまりに高尚非凡でうやまうことすらできないのがある。(3. 9「いっさいは空であること」、p.62)

 ソクラテスモンテーニュが最も敬愛する人の一人であるが、そのうるさい議論やデーモンに取り憑かれたりする様には閉口した。


プルタルコスの中には、彼がその主題を忘れている諸篇、その論証する当の問題がまったくほかの題目の下におしつぶされてときどきしか顔を出さない諸篇がある。例えば「ソクラテスのデモン」のゆき方を見たまえ。あの元気のよい脱線跳躍、あの千変万化ヴァリアション、おお何たる美しさであろう! それは無頓着・偶然の風趣を帯びていればいるほどいっそう美しい!(3. 9「いっさいは空であること」、p.103)

 プルタルコスこそがモンテーニュの文章の先生であるようだ。この評言は、まさしくモンテーニュ自身にも当てはまるのである。


前者〔セネカ〕は威勢がよくて我々をいちどに感激させ、むしろ我々の感情を衝く。後者〔プルタルコス〕の方はそれよりも落ちついていて、不断に我々を教え我々を鍛え、むしろ我々の理性に訴える。前者は我々の判断をいっぺんに奪い、後者は徐々に掌握する。(3.11「人相について」、p.193)

 モンテーニュが愛読した二人の哲人を比較したものである。どちらかと言えば、プルタルコスの方が好きだったのだろうと思われる。


わたしは哲学上の諸説のうち、もっとも堅実ソリードなものを最も好んで信奉する。最も堅実な、とは最も人間らしい・最も我々らしいという意味である。だからわたしの所論は、わたしの日常に相応して低くつつましい。 (3.12「経験について」、p.340)

 モンテーニュソクラテスを愛した理由の一つは、彼が決して肉体を軽視しなかったからである。精神をより愛しはしたが、精神が独歩することはない。まっさきにゆくだけである。ここに中庸の最高の規範を見たのである。