本の覚書

本と語学のはなし

パイドン 魂の不死について/プラトン

 ソクラテス最後の議論と、毒人参を飲み干して死ぬ彼の姿を描いた、プラトン中期の作品。
 ソクラテスは死を恐れない。むしろ死を望んでさえいる。魂が不死であること、哲学を通して死の学習をしてきた彼にとっては、死後の世界がそれに相応しいものになることを、信じているからだ。
 ここに初めてプラトンイデア論が登場する。われわれの魂が肉体に閉じ込められる以前、魂はものそのものの真実在に触れており、われわれがこの世界でものを学ぶのは、その似姿に真実在を想起しているのである。
 『弁明』におけるソクラテスは、おそらく神を信じ、魂の不死をも信じていたかも知れないが、哲学者としては不可知論者であるように見える。『パイドン』におけるソクラテスは、歴史的ソクラテスというよりは、かなりの部分がプラトンソクラテスであるようだ。


 ソクラテス最後の言葉。

クリトン、アスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるようにね。(p.176)

 いろいろ説はあるようだが、肉体に呪縛された魂を病気の状態と考え、そこから解放されることに対して、医術の神に感謝しようとしたのだ、というのが一般的な解釈であるようだ。
 この日、プラトンは病気のため、ソクラテスの死に立ち会うことはできなかった。


実にこの理性こそ、ソクラテスをその悪い傾向から立ち直らせ、彼をその町を支配する人々および神々に従順ならしめ、彼を死に臨んで泰然自若たらしめたのだが、それは彼の霊魂が不死であるからではなく、彼が死すべき者モルテルであるからであった。ただ宗教的信仰さえあれば品行がそれに伴わなくても、神の正義を満足させるに十分であるかのように民衆に信じさせることは、どんな国家にとってもそれを危うくする教えであって、巧妙精緻を通り越してはなはだ有害な教えである。経験は我々に、信心と良心の間には巨大な相違があることを教えている (p.232)

 たまたま最近読んだモンテーニュの『エセー』第3巻第12章「人相について」に、ソクラテスの死についての言及があったので書き抜いておく。
 信仰のみということを強調したプロテスタントに対する反論の中に置かれているわけだが、ソクラテスの強みは不死への信仰ではなく、理性の力であったことを強調している。『パイドン』におけるソクラテスは、決して魂の不死に安心しきっていたのではなく、肉体の影響を受けずにより精神的に生きることが、死後の世界のためには重要であると考えてはいるのだが。
 しかし、不可知のことに関しては懐疑論者であることをよしとしたモンテーニュにとって、英雄ソクラテスは歴史的ソクラテスの方であったのだろう。