本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】運命をも超越して【賢者の恒心】

 昨日でセネカの『摂理について』(または『神慮について』)を終えた。今日からは、順番どおり『賢者の恒心について』を始める。
 順番というのは、最古の写本に基づくものである。『摂理について』『賢者の恒心について』『怒りについて』『マルキアに寄せる慰めの書』『幸福な生について』『閑暇について』『心の平静について』『生の短さについて』『ポリュビウスに寄せる慰めの書』『ヘルウィアに寄せる慰めの書』という順で10編が並ぶ。太字にしたのは、岩波文庫の新訳に収録されているものである。*1
 必ずしも順番にこだわっているわけではなくて(年代順というわけでもない)、とりあえず和訳が手元にあるもので、なるべく短いものを選んだだけである。
 『賢者の恒心について』は、岩波文庫の旧訳(茂手木元蔵訳)には収められていない。これを機に、今後は新訳のみを参照することにする。


Stoici virilem ingressi viam non ut amoena ineuntibus videatur curae habent, sed ut quam primum nos eripiat et in illum editum verticem educat, qui adeo extra omnem teli iactum surrexit, ut supra fortunam emineat. (1.1)

ストア派は男子の道をとり、進まんとする者に楽に見えるようになどと気をまわしたりしない。むしろ、できるかぎり速やかに、われわれをらっして、あの突出せる頂へ導いていく。そこは、あらゆる兵器の射程を超えてそびえ立ち、運命をも超越して突出する場所だ。(p.43)

 セネカは冒頭、ストア派は命令のため、エピクロス派などの他派は服従のために生まれたのだという。現代であれば直ぐに炎上してしまうだろうけど、そこには男女間の性差への類比が考えられている。そして、引用した勇ましい文章が続くのである。
 ストア派の賢者というのは、ほとんど感情を持たないスーパーマンである。いかなる悪をも被ることがない。より正確に言えば、害されることがない。たとえどれほど理不尽な仕打ちを受けたにしろ、そんなことは彼にとって何ほどのことでもない。彼が神に劣るのは、ただ時間的な制約の下にある点においてである。実現不可能な理想像である。


 ラテン語に興味のある人がどれほどあるか知らないが、一応簡単な語学的注を施しておくと、「進まんとする者に楽に見える(ように)」の主語はストア的な「雄々しい」道である。同様に「われわれを拉して、あの突出せる頂へ導いていく」のも、その道である。


 モンテーニュがマッチョなストア派に憧れていたのかというと、そういう訳ではない。影響を受けていた時期もあるようだけれど、彼はどちらかと言えば運命に随順する道の方をとる。
 セネカも決して自分の理想通りの人間であったわけではないようだ。威勢のよい言葉を必要としていたのだろう。凡夫に与える実際的な処方の段になると、理想よりはだいぶ下界に近づいてくることがあるけれど、それもまた彼自身への処方であったのだろう。

*1:私は(今のところ)持っていないけれど、古典新訳文庫に収録されているのは、『人生の短さについて』『心の安定について』『母ヘルウィアへのなぐさめ』の3編。