本の覚書

本と語学のはなし

怒りについて 他二篇/セネカ

 茂手木元蔵の旧訳を1か月前に読んだばかりであるが、どうもあまり信頼が置けない気がしたので、兼利琢也の新訳で読み直してみた。
 ちょうど今日、ラテン語で『摂理について』(茂手木訳では『神慮について』)を終えた。新訳が届いてからは、常に両訳を比較した。
 和訳の通読と、原典に照らしての精読を総合して得た結論は、茂手木の全集は買うべきでないと言うことだ。ところどころ首をかしげざるを得ない訳がある。それ以上に、注釈の質と量が圧倒的に見劣りする。兼利の注釈を通してセネカを眺めると、学説史の中での位置づけが明瞭になってくるのだ。


 学説史とは関係ないが、兼利の注釈がありがたかったところ。

不眠を永続させるべく、瞼は釣り上げられたまま。(『摂理について』3.9, p.22)

 レグルスが受けた拷問を描写している。原文、英訳、茂手木訳は以下の通り。

in perpetuam vigiliam susupensa sunt lumina.

his eyes are stark in eternal sleeplessness.

幾夜も眠らなかったために、両眼は吊り上がっている。(茂手木訳, p.199)

 前置詞のinは対格を従えているから、一般には方向性を表す。ここでは目的と考えるべきだろう。ただし、時間を表す用法もある。
 よく分からなかったのがsuspensaである。英語に直訳すればsuspendedであるから、「つり上げられている」というのは理解できるのだが、それがどういう状況か把握しかねていたのだ。
 兼利の注釈にはこうある。

伝説によれば、瞼を切り取られて拷問具に括り付けられた(キケロー『ピーソー弾劾』43参照)。(p.274)

 これを見ると、不眠のために眼がつり上がった(こわばった?)というのは、どうやら誤訳らしく思われる。


 だが、これで直ちに「セネカ哲学全集」を購入しようという結論にはならない。やはり高価すぎるのだ。モンテーニュ理解のためには、プルタルコスと並んで、絶対に読んでおくべき著作家であることもよく分かったのだが、読み切れるのかという心配もある。
 先週受けた面接は失敗に終わったし、お金も時間も今後のことがまだ分からない。しばらくは岩波文庫の新訳だけで満足しておくことにしよう。

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