本の覚書

本と語学のはなし

エピクロス 教説と手紙/エピクロス

 この本に収められているのは、ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』のエピクロスの項(最後の第10巻がまるまる彼に当てられている)に引用された3つの手紙(ヘロドトス宛、ピュトクレス宛、メノイケウス宛。ただしピュトクレス宛は真作かどうか議論がある)と『主要教説』という短文集、バチカンで発見された断片、他の著作家に引用された断片、そして『哲学者列伝』の本文である。
 現存するエピクロスの文章は、他に焦げた断片から復元された手紙があるらしいが、翻訳時点では訳者らもそのテキストに接する機会を持つことができなかったという。


 「ヘロドトス宛の手紙」では原子論が説かれる。今は失われた『大摘要』に対して、こちらは『小摘要』と呼ばれている。『大摘要』の自然学部門は、後にルクレティウスラテン語の詩に翻案したと言われている。併せて読めばエピクロスの原子論がよく分かるだろう。観察と思考の力のみで、よくぞここまで到達できたものだと思う。
 ただし、複雑な現象を全て説明し尽すことは無理である。「ピュトクレス宛の手紙」では星辰や気象のことが扱われるが、可能な説明をいくつか羅列して(現代の我々から見れば、妥当な説明は一つもなさそうだが)、どれか一つのみを選ぶことなく、複数の可能性に満足するように言う。


 哲学の始まりはタウマゼイン(驚くこと)だとも言われる。これが知的好奇心を刺激して、探求を前に進める。一般に、知れば知るほど新たな疑問も湧いてくるもので、おそらくタウマゼインの尽きることはない。あるいは究極的な「なぜ」の問いには、答える術がない。タウマゼインを抱えたまま立ち尽すしかないのかもしれない。それが形而上学の始まりかもしれない。
 しかし、エピクロスの哲学では、むしろタウマゼインを取り除くことが主要な目的である。タウマゼインは動揺や恐怖と結びつき、不合理な迷信や宗教を生み出す(エピクロス無神論者ではない。至福の神々が人間に関与することを否定するだけである)。心の静安(アタラクシア)こそが目指すべき快である。
 古代の観察や実験の装置から自ずと限界はあるけれど、エピクロスの哲学にはタウマゼインを推進力にどこまでも進んでゆこうという姿勢はそもそもないのである。


 「メノイケウス宛の手紙」ではエピクロスの倫理が展開される。快をもって善とするという説はしばしば誤解され、エピキュリアンといえば快楽主義者、享楽主義者ということになってしまっている。だが彼は、アタラクシアを乱すような快をしりぞける。どちらかと言えば慎ましやかに、隠れて生きるのがエピクロスの理想なのである。

けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少年や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって、素面の思考ネーポーン・ロギスモスが、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。(p.72)

 それであればこそ、ストア派セネカエピクロス派に親近感を覚えていたのである。