本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集4 モンテーニュ随想録4/モンテーニュ

 第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」のみを収める。『エセー』の中で一番長い章である。
 レーモン・スボンというのは、モンテーニュよりもやや前に生きた人で、スペインに生まれフランスで医学や神学を教えていたようであるが、詳しいことは分からない。
 『自然神学』という本を著した。「ラテン語風の語尾を交えたスペイン語で書かれている」そうだが、モンテーニュは父の勧めによってこの本を翻訳する。


 しかし、「レーモン・スボン弁護」は自発的に書かれたものではないらしい。関根秀雄の注を引用しておく。

この人〔ナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワ〕は、その夫アンリ・ド・ナヴァールが1576年にルーヴル宮を脱出してから、宮中の一室にほとんど監禁同様の状態におかれ、はなはださびしい生活を送っていたが、1578年に母太后カトリーヌ・ド・メディシスに伴われて、いよいよギュイエンヌ州にいる夫のもとに帰ることになった。このときマルグリットの心中は、喜びと心配とできわめて複雑微妙なものがあった。ルーヴル宮においてはもちろん新教の行事が禁じられていたし、兄アンリ三世に対する気兼ねもあったからではあるが、孤独のマルグリットはこの間にカトリック教の信仰を篤くし、特にレーモン・スボンの『自然神学』に傾倒して、わずかに煩悶を忘れていた。(中略)だが、いよいよこれからナヴァール王のもとに行けば、これまでの自分の信仰はどうなるであろう。そこには新教徒の頭目ナヴァール王をとりまいて、カルヴァン教を奉ずる神学者宣教師をはじめ、先鋭な政治家やジャンティヨムがたくさんいる。彼女の良心のただ一つのよりどころとなっている『自然神学』がそこでさんざんな非難をあびていることは、既に風の便りで十分知っている。やがて自分もいやおうなしに新教に改宗させられずにはすむまい。こういう心配が、マルグリットの心にあふれていた。一行がボルドー市に入り、ここに一週間滞在したのは1578年の9月の末に近かったが、この時マルグリットは前年末ナヴァール王室伺候のジャンティヨムになっているモンテーニュに会い、その心配を述べ、助力を懇願し、同時に『自然神学』の弁護を依頼したのではないかと言われている。(P.217)


 レーモン・スボンの著作がどういう内容なのか、私は知らない。だが、一般に自然神学といえば、被造物の観察から創造主へと、理性の働きによって至りつくようなタイプの神学のことであろう。
 果たしてモンテーニュがそういう神学を弁護したのかといえば、そうではなさそうだ。
 まるで『純粋理性批判』の先駆でもあるかのように、感性、悟性、理性による認識能力、判断能力を吟味し、エートルの完全な把握は出来ないとして、懐疑論へと大きく傾くのである。信仰についていえば、どこまで本気ではあるか知らないが、恩寵の重要性を説いている。