本の覚書

本と語学のはなし

【イタリア語・フランス語】これこそ最高の学校のひとつではないか【エセー1.17】

 モンテーニュを原文で読むには何語を学べばよいのか。
 当然ながら、第一にフランス語である。古いフランス語なので、注釈のあるテキストや、16世紀フランス語辞典を用意する方がよいだろうけど、慣れてくれば何とかなる。
 第二にラテン語である。ラテン語の引用はいたるところにちりばめられている。しかし、テキストにはふつう現代フランス語訳がついている。一般的にはそれで十分だろう。
 実のところ、邦訳を見れば、おそらく重訳だろうと思われるものが数多くある。専門家でもきちんとラテン語に向き合っていない可能性はあるのだ。
 ただ、ラテン語モンテーニュがフランス語を覚えるより先に話していた言葉である。引用はただの衒学趣味ではなく、ほとんど名人芸のような域にまで達している。せっかく原典で読むならば、ラテン語の引用も味わえるに越したことはない。
 第三にイタリア語である。『エセー』での引用はごくまれであり、無視しても構わないくらいだが、もし『旅日記』を読むならば、イタリア語で書かれた部分がかなりある。
 ただし、プレイヤード版全集はイタリア語部分をフランス語訳のみで紹介しているし、関根秀雄の全集も現代フランス語訳からの重訳である。おそらく古いイタリア語であろうし、モンテーニュがどこまで達者であったか知らないので、敢えて挑戦する必要はないかもしれない。
 おまけはギリシア語とスペイン語である。ごくまれにギリシア語の引用はあるし、天井に書かれた格言にギリシア語のものもあるけど、モンテーニュギリシア語の本はラテン語訳かフランス語訳で読んでいた。スペイン語は彼の父が得意だったらしいが、引用は一か所くらいしかないのではないだろうか。


J'observe en mes voyages cette practique, pour apprendre tousjours quelque chose par la communication d'autruy (qui est une des plus belles escholes qui puisse estre), de ramener tousjours ceux avec qui je confere, aux propos des choses qu'ils sçavent le mieux.


Basti al nocchiero ragionar de'venti,
Al bifolco dei tori, e le sue piaghe
Conti'l guerrier, conti'l pastor gli armenti.

 第1巻第17章「何人かの使節たちのふるまいについて」(宮下訳では第16章)の冒頭部分である。
 イタリック部分はイタリア語だ。プロペルティウスの詩なので、本来ラテン語で書かれているのだが、たまたまイタリア語で読んだ本に翻訳されていたのを引用したものらしい。*1


 わたしは旅に出ると、他人とのコミュニケーション――これこそ最高の学校のひとつではないか――によってなにかを学びたいと思って、話している相手がもっともよく知っていることがらに話題をもっていくという習慣を、いつも守っている。


 船頭は船のことを、牛飼いは牛のことを考えていればいいし、戦士は自分の傷を、羊飼はヒツジの群れを数えていればいいのである。

 宮下志朗訳である。
 フランス語部分もイタリア語部分も割と正確である。たしか宮下はイタリア語もよくできるのではなかったろうか。
 まあ、モンテーニュがそうであったように、フランス語とラテン語が分かれば、イタリア語も学びやすいのではあるが。


 (a) 私は旅に出たときは、他人との交際によって(これは最良の学校の一つだ)常に何かを学びとるために、私の話し相手がもっともよく知っている事柄に話題を引き戻すというやり方を守っている。


 船頭は風を、農夫は牛を、兵士は負傷を、牧人は羊を語るだけにとどめよ。

 原二郎訳である。
 イタリア語部分は原文から直接訳したとは思えない。原文にはBasti ragionar(考えれば十分とせよ)とConti(数えよ)という二種類の動詞(群)が用いられているが、その区別をまったくせず、全部「語るだけにとどめよ」としている。
 おそらくは「Que le nocher se borne à parler des vents, le laboureur des taureaux, le guerrier de ses blessures et le berger des troupeaux.」といったフランス語訳からの重訳であろう。


 (a) わたしは旅に出ると、いつも他人ひととの交際から(それこそ最良の学校の一つなのであるから)何事をか学びとろうと思うので、それぞれが最も得意とする事柄に関してわたしの話し相手になるような人たちを、連れてゆくことにしている。


 風を論ずるのは船頭、農事を語るのは農夫、負傷を語るのは戦士、
そして、羊の群れについて語るのは羊飼い。(プロペルティウス)

 関根秀雄訳である。
 先ずフランス語部分の解釈について。「aux propos des choses qu'ils sçavent le mieux」を関係代名詞節の中に入れている。だが、その前にわざわざカンマがあるのだから、そこで関係代名詞の節が終わり、それを挟んでramener(引き戻す)にかかるものと考えるべきであろう。
 そもそもある分野に一家言を持つ人々を旅行に引きつれていくなんて、現実的ではない。当時の旅行は生やさしいものではないし、お金もかかるのだ。
 それに『旅日記』を読めば分かるように、モンテーニュはその土地土地でいろんな人を訪ね、いろんな話をしている。フランスから博士たちを連れて旅立ち、道中彼らと哲学や文学を論じたなどということは一言も書かれていない。
 イタリア語部分に関しては、もうほとんど原文の面影がない。


 最初に書いたことを訂正しておくと、どうやらモンテーニュを読むのに必要なのは、フランス語だけであるようだし、古いフランス語を誤読したとしても、恥じるには及ばない。
 現代フランス語しか知らなくても、ともかく始めてみればよいのである。必要な知識は途中で補えばいいのだし、ラテン語やイタリア語など分からなくても居直ってしまえばいい。
 それでも十分楽しいに違いない。

*1:便利な時代である。ラテン語の原文も直ぐに調べられる。"navita de ventis, de tauris narrat arator, / enumerat miles vulnera, pastor ovis;"