本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】左側の烏がうつろな姥目樫から【牧歌9】

 ウェルギリウスの『牧歌』は第9歌に入った。全部で10歌なので、もうすぐ終わる。
 第9歌は第1歌と同じく、ウェルギリウスも巻き込まれた、退役軍人のための農地没収を扱っている。彼自身は父の土地を守ることができたが、立ち退かなければならない人も多かったのである。
 タイトルから想像されるような理想郷だけが、この『牧歌』に歌われたわけではない。


 引用は第9歌14-16行。

quod nisi me quacumque novas incidere lites
ante sinistra cava monuisset ab ilice cornix,
nec tuus hic Moeris, nec viveret ipse Menalcas.


 小川正廣訳。

もしも僕に、新しいもめごとは何とかして打ち切るようにと、
左側のからすが、うつろな姥目樫うばめがしからかねて警告してくれなかったら、
君のこのモリエスも、またメナルカスさえも、もう生きてはいないだろう。


 河津千代訳。

もしも烏が左手のひいらぎうろの中から、「何がどうあれ、
このあいだの問題は打ち切れ」と、わしに忠告してくれなかったら、
このモエリスも、メナルカスさえも、いまごろ生きてはいなかったろう。


 二つの翻訳の一番大きな違いは、「左の」という形容詞を、「烏」にかけているのか「姥目樫、もしくは柊」にかけているのか、という点である。
 そこで韻律の話になる。
 ウェルギリウスの詩は、英雄叙事詩などに用いられる六脚韻で書かれている。1行の中に、長短短もしくは長長の音節を6回繰り返すのである(最後は長短もしくは長長)。
 音節が長いというのは、長母音の場合、もしくは、原則として(例外もあるが)短母音の後に子音が2つ以上連なる場合(単語を跨いでもよい)である。音節が短いというのは、短母音の後に(単語を跨いでも)子音がないか、1つのみである場合である。
 問題の行を6つに分けると下のようになる。

|① ante si- |② -nistra ca- |③ -va monu- |④ -isset ab |⑤ ilice |⑥ cornix |

 これは、|①長短短|②長短短|③長短短|④長短短|⑤長短短|⑥長長|となるはずなので、長母音を分かりやすく表示すると、下のようになる。

|① ante si- |② -nistra ca- |③ -vā monu- |④ -isset ab |⑤ īlice |⑥ cornix |

 これによって、「左の」を意味するsinistraの最後の母音は短いこと、次の「うつろな」を意味するcavā(英語のcave参照)の最後の母音は長いことが分かる。前者は女性・単数の主格、または中性・複数の主格か対格であり、後者は女性・単数の奪格である。したがって、この2つの形容詞が同一の名詞を修飾しているという可能性はなくなる。つまり、河津訳は間違いであろうと結論される。
 続きを見ていくと、「警告する」という動詞monuissetの後に、ab iliceとある。abは「から」を意味する前置詞で、奪格を伴う。次のiliceが「姥目樫、もしくは柊」を意味するilexという女性名詞の単数・奪格である。したがって、cavaはこれを修飾する。
 その後に来るのが、「からす」を意味するcornixという女性名詞の単数・主格であり、これをsinistraが修飾するのである。
 名詞と形容詞が離れすぎではないかと思うかもしれないが、ラテン語ギリシア語ではよくあることで、韻文ではむしろごくありふれた語順なのである。


 ところで、「左」というのは、鳥占いでは吉兆ということになっているが、一般には縁起が悪く(英語のsinister参照)、ここでも烏やうつろなうばめがしとともに、不吉なサインとなっているようだ。


 河津訳では、もう一つ、「柊の空(うろ)の中から」という表現が気になる。
 たとえばmediusという形容詞は「中間の」という意味であるが、これが名詞を修飾すると、「中間の~」ではなく、「~の中間」となることがある。in medio foroは「真ん中の市場で」ではなく、「市場の真ん中で」である。河津はこういう例を援用して、「うつろな柊から」ではなく、「柊のうろから」としたのかもしれない。
 あるいは、うつろな柊があれば、烏はそのうろの中にいるのが当たり前ではないかと考えたのかもしれない。
 烏が柊から警告するのであれば、烏が左にいるのであれ、柊が左にあるのであれ、状況に違いはないかもしれないが、烏がうろの中にいるのかそうとは限定されないのかは、大きな違いである。