本の覚書

本と語学のはなし

【ギリシア語】怒りを歌え【イーリアス1】

μῆνιν ἄειδε, θεὰ, Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος
οὐλομένην, ἣ μυρί᾽ Ἀχαιοῖς ἄλγε᾽ ἔθηκε,
πολλὰς δ᾽ ἰφθίμους ψυχὰς Ἄϊδι προΐαψεν
ἡρώων, αὐτοὺς δὲ ἑλώρια τεῦχε κύνεσσιν
οἰωνοῖσί τε πᾶσι, Διὸς δ᾽ ἐτελείετο βουλή,
ἐξ οὗ δὴ τὰ πρῶτα διαστήτην ἐρίσαντε
Ἀτρεΐδης τε ἄναξ ἀνδρῶν καὶ δῖος Ἀχιλλεύς.

 『イーリアス』第1巻の冒頭部分である。暗唱できるほどかつて繰り返し音読したところだが、あらためて丁寧にひとつひとつ単語を辞書で調べてみた。
 新しい生活が刻々と近づいてくる。これまで通り何でも少しずつ齧っているわけにはいかない。ドイツ語とラテン語を捨て去るつもりでいたが、それよりは一番不得手な言語をこそ手放すべきではないかと思い直した。
 それはヘブライ語である。歳を取ってから独学で始めたから上達しないのではない。意欲がないに違いないのである。旧約聖書を原典で読む必要を感じていないのだ。
 そのことが、新約聖書ギリシア語で読むという行為にも疑問を投げかけた。やさしいギリシア語であるし、読めばそれなりに面白いのだが、日本語訳を読んでいて必要に応じて原文を参照するだけでも十分ではないだろうか。
 そろそろ私も、モンテーニュほどの信仰心もないことを白状しなければならないのである。学生時代にカトリックの洗礼を受けた。長い年月を経て、それを今一度問い直してみる必要はあった。だが、それ以上には進めないことを感じていたのである。
 新約聖書に代えてホメロスを続けるのかどうかは分からない。だが、暫くはホメロスウェルギリウスモンテーニュシェイクスピア、およびゲーテを友として、歩いてみることにした。聖書はフランシスコ会訳を読むだけにする。


 岩波文庫の松平千秋訳。

 怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの――アカイア勢に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王アイデスに投げ与え、その亡骸なきがらは群がる野犬野鳥のくらうにまかせたかの呪うべき怒りを。かくてゼウスの神慮は遂げられていったが、はじめアトレウスの子、民を統べる王アガメムノンと勇将アキレウスとが、仲違いして袂を分かつ時より語り起こして、歌い給えよ。

 最初の単語が「怒りを」である。『イーリアス』全巻がここに集約されている。散文訳であっても、この語順は動かせない。「ペレウスの子アキレウスの怒りを歌え」とはできないのである。ちなみにロエーブの英訳では「The wrath do thou sing, O goddess, of Peleus’ son, Achilles」となっている。
 2行目の冒頭の形容詞「呪うべき」は、この「怒り」を修飾している。この位置にあることで強調されているのだ。続く関係代名詞は、単なる繋ぎというよりは、いかに呪われた怒りであるか、その説明であり理由の提示である。
 西洋文芸史に最初に現れたこの叙事詩が、その後の長い歴史の中でも至高の地位を保っているのは、単に最初だからという特権のためだけではないのである。


 筑摩書房の世界古典文学全集に収められた呉茂一訳。

 憤り(の一部始終)を歌ってくれ、詩の女神よ、ペーレウスの子アキレウスの呪わしいその憤りこそ数知れぬ苦しみをアカイア勢力に与え、またたくさんな雄々しい勇士らの魂を冥府よみじへと送ってやったものである。そして彼らの屍はといえば、野犬だの、猛禽類の餌食にされた。一方、その間に(大神)ゼウスの意図は成就されていったのだ、いかにもそれは、最初に武士たちの王であるアトレウスの子(アガメムノーン)と、勇ましいアキレウスとが争いをおこして不仲になって以来のことである。

 最後の2行の解釈が、松平とは違う。ここは最初の「歌え」に修飾関係が戻り、「両将の仲違いの時から歌い始めよ」とするのが一般的なようである。
 細かい点での松平との違いを挙げておくと、固有名詞の長母音を翻訳でも保っていること、原文にない言葉は括弧に入れてあること。原文にはアガメムノーンの文字はない。アトレイデースというのがアトレウスの息子という意味で、アトレウスには他にも息子はあったが、ここではアガメムノーンのことを指しているので、括弧に入れた。