本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集9 モンテーニュ書簡集/モンテーニュ

 とうとうモンテーニュ全集を読み終えた。
 最終巻には書簡、家事録、書斎の天井に書かれた格言と親友ラ・ボエシの若き日の論文『奴隷根性について』が収められている。


 書簡は全部で39通残っている。
 マティニョン元帥や国王になったアンリ4世に宛てたものなど、公的な性格のものが多い。新旧教徒の確執の中で、モンテーニュもまた何もしていなかったわけではない。


 家事録は、ブーテルの『歴史暦』という当用日記のような過去帳のような本に書き込まれた、モンテーニュ家の歴史である。
 この本はミシェル自身が購入し、最初はモンテーニュ家のこと以外のことも記入していたようだが、それらは消されて、やがて家の記録だけになった。ミシェルの死後も、1716年まで書き継がれたという。訳されているのは、ミシェル自筆の部分のみである。
 例えば、1584年12月19日のところには、こう書かれている。

ナヴァール王が、今まで一ぺんも来られたことのないこのモンターニュまで、私に会いに来られた。二日お泊まりになったが、その間、御家来衆をひとりも召し出されず、万事わが家の者どもに御用命あり、御毒味もさせられず、御用の食器もお用いになられず、夜は私の寝台で御眠りになった。(p.202)

 ナヴァール王は後のアンリ4世である。
 1588年7月10日、モンテーニュはパリで逮捕されている。

午后三時から四時の間に、パリ郊外サン・ジェルマンの宿で、ちょうどその三日前に始めて私を襲った、一種の痛風のために病臥していたところ、パリの武士たちや町民たちによって逮捕された。あたかも国王陛下[アンリ三世]がギュイズ公のために都を逐われ給うた頃のことで、私はそのままバスティーユに連れてゆかれた。〔中略〕その日の夕八時ごろ太后殿下の執事が一人かけつけて来て、前記ギュイズ公およびパリ市長から、時のバスティーユ監獄長ジャン・ルクレールに宛てたる令書を示して、私を釈放してくれた。(p.205)

 政治的な報復であったようである。カトリーヌ・ド・メディシスのはたらきかけで、釈放された。このときのパリ市長は、『旅日記』にも登場する人である。1581年4月24日から26日までロレートに滞在したとき、たまたま会ったミシェル・マルトー・ド・ラ・シャペルから、脚の病が治った奇跡の話を聞いている。(『旅日記』p.182)


 天井に書かれた格言は、ラテン語ギリシア語である。
 聖書は旧約の伝道の書を最も好んだようである。セクストゥス・エンピリクスも多い。これは懐疑論である。


 ラ・ボエシの『奴隷根性について』は、後に誰かの手で書き加えられた形跡があるのだが、それをモンテーニュだとする説もあるようだ(もちろん否定する説もある)。
 モンテーニュはこの書が政治的に利用されるのを恐れていたようである。実際プロテスタント側によって王朝攻撃の具となっていた。
 ちくま学芸文庫から『自発的隷従論』というタイトルで出版されているので、単独で読むこともできる。