大概途中で別の訳を試したりするものだが、今回はほぼフランシスコ会訳だけを読み続けた。今後、通読用としては、恐らくフランシスコ会訳以外を用いることはないだろう。
カトリックだからと言うわけではない。文字さえ目に優しければ、新改訳のチェーン式引照付きでもいいと思っている。注釈とか地図とか引照とか、なるべく中立的である限り、読解の助けになるものが豊富であればあるほど、私にとっては嬉しいのである。
カトリックの聖書である以上、もちろん完全に中立というわけではない。第二正典は新共同訳の旧約続編のように付録的に扱われるのではなく、正典の中に組み込まれている。エステル記やダニエル書は正典の本文の中に、第二正典が入り込む。これが耐えられない人にはお勧めできない。
ただ、注釈に関しては比較的(バルバロ訳に比べれば遥かに)カトリック色が薄いように思う。一般のカトリックの人には、却ってそれが不満なのではないかと想像したくなる。
第二正典の分量は案外馬鹿にならない。
一年での通読を目標とするとき、有ると無いとでは全然違う。フランシスコ会訳を止めたいという誘惑に駆られることがあるのは、専らそのためである。
だが、アウグスティヌスを読み続けるのであれば、当たり前のように第二正典からの引用もちりばめられていることであるし、親しんでおくにしくはないのである。
ついでに言っておくと、第二正典を読む習慣があるのはカトリックと聖公会であるが、後者が第二正典を教義の根拠としないのに対して、カトリックではそこから導かれる教義もある。