本の覚書

本と語学のはなし

アウグスティヌス著作集11 神の国(1)/アウグスティヌス

 『神の国』全22巻の内、1巻から5巻まで、及び後に自分の著作を振り返った『再考録』の内、『神の国』について書かれた部分の抜粋を収めている。
 『再考録』によれば、『神の国』は神の国だけではなく、地の国についても書かれているけれど、題名は良い方の名を取って付けられた。
 1巻から5巻までは、専ら地の国の考察である。発端はゴート族のローマ劫掠であった。キリスト教が国教となり、異教の礼拝が制限されたことがこの災いをもたらしたとして、キリスト教が非難されたらしい。これに反論するべくローマの歴史と異教の神々への信仰が吟味されるのである。


 緻密な計算のもとに構築された書物というわけではないので、いろんなトピックスが扱われる。
 例えば、蛮族に陵辱されるのを防ぐため、もしくは陵辱されたことを恥じるあまり、自殺することは許されるのか。エウセビオスを読んでいると、迫害の時期に貞潔を守るため自死を選んだ女性の勇気をたたえる文章も見られるが、アウグスティヌスはそうではない。自殺を罪と考えるからだけではなく、陵辱されることは罪ではなく、これを汚れと見なすことがあってはならないからである。


 エウセビオスを訳した秦剛平は、エウセビオスの『教会史』やアウグスティヌスの『神の国』を反ユダヤ主義の元凶としてその罪を追及する。
 確かにアウグスティヌスにはこんな言葉がある。

そこでキリストを殺したユダヤ人もローマ人の栄誉のために用いられるに至ったことは至極当然のことである。旧約の中で隠されていたことが新約において啓示されたのであるが、それは、神の摂理が善人にも悪人にも無差別に授けたもうた地上の一時的恵みのためではなく、永遠の生命と永続的贈物、および上なる国そのものの交わりのために、唯一の神が礼拝されるためである。そのため、どのような種類の徳によっても地上的栄誉を求め、これを獲得した者たち〔ローマ人〕が、真の栄光と永遠の国の授与者をひどい悪徳により殺して拒絶した者たち〔ユダヤ人〕を、征服したのは至極当然のことである。(5巻18章)

 歴史の神学的解釈は危険に満ちている。