本の覚書

本と語学のはなし

ニーチェ全集 第1巻(第Ⅰ期) 悲劇の誕生・遺された著作(1870-72年)/フリードリヒ・ニーチェ


 白水社の全集はグロイター版全集からの翻訳である。凡例を見ると、原全集のⅢからⅤが白水社の第Ⅰ期に、ⅥからⅧが第Ⅱ期に、ⅠとⅡが第Ⅲ期に相当するという。しかし、白水社の企画は第Ⅱ期が完結したところで止まっている。
 恐らく翻訳されなかった部分は学生時代及びそれ以前の文章群だろうから、どちらかと言えば資料的な意味合いのものであろう。採算が取れそうになくて頓挫したのだろうか。


 第Ⅰ期第1巻に収められているのは、『悲劇の誕生』及び同時期に書かれたが出版されなかった著作。
 『悲劇の誕生』はアポロン的とディオニュソス的という対立概念を用いたことで有名である。古典文献学者としての一線を越えてしまったため、学生時代の恩師からも評価はされなかった。
 ここで言う悲劇とはギリシア悲劇のことである。コロス(合唱隊)は舞台で形象化されるアポロン的なものの理想的な観客などではなく、むしろディオニュソス的なるものの音楽的な流出として悲劇を誕生せしめたのである。
 そして、その本源的ギリシア精神の継承者として、真のドイツ精神の旗手となるべきものが、ワーグナーであるという。


 遺された著作群は概ね『悲劇の誕生』の梗概もしくは注釈として読むべきものであるが、『われわれの教育施設の将来について』と題された講演原稿はまた別の問題を扱っている。
 『悲劇の誕生』の出版が学会からは何の反応も得られず無視されていた頃、6回の予定で始められた教育に関する講演である(メモには7回目の構想もあったようだが、実際には5回しか行われていない)。
 ショーペンハウアーを思わせる老哲学者が教育について語る。その内容は精神的貴族主義。教育の大衆化、ジャーナリズムへの迎合、専門の細分化などが批判される。人文的天才が人文的天才にギリシア精神を体得させること、それだけが教育の使命であるかのようである。


 さて、どうしたものか。このままニーチェを読み続けるべきかどうか。
 問題が二つある。
 一つは、初期の文章群や膨大な書簡が省かれているとは言え、ニーチェ全集を読むのは大事業であること。白水社版には遺された断想も収められている。出版物だけでもかなりの量であるが、断想もまた大量である。しかもメモであるから、まとまりのある短文だけではなく、箇条書きでしかないものもたくさんある。これらに一々目を通すのは、ほとんど苦行と言ってよい。
 ちくま学芸文庫の全集を読むという手もあるかも知れない。こちらには白水社版に収められていない幾つかの文章もある。遺稿群は後に編集された『権力への意志』や『生成の無垢』に重要なものが収められている。厳選された書簡もある(『生成の無垢』と書簡は別巻)。ためらうのは、後の編集というところに抵抗があるのと、翻訳に対する不信感があるためである。ニーチェの天才教育の根幹にはドイツ語習得への厳しい要求が伴っていた。そう言う人のドイツ語を扱うには、あまりにゴツゴツした手を持つ翻訳者たちが多いのではないのかと恐れるのである。
 もう一つは、読めば読んだなりに得るものがある(しかも相当にあるだだろう)ことは分かっているのだが、心からニーチェに共鳴することは決してないだろうということもほとんど確実であるということ。


 さて、どうしたものか。
 ビューヒナーに戻るという手もある。遺された文章は少ない。むしろ少なすぎて困るくらいである。その少ない中に、たとえば『ニゴイの神経系に関する覚書』などがあるのもちょっと困惑する。
 だが、プラスに考えるならば、ニーチェの場合と違って、翻訳されていない文章があるという事実に気分が下降することはない。今の私にとってドイツ語の占める位置を考えると、この位がちょうどいいのかもしれない。


 いつ結論を下すか、そのことにもまだ結論は下せない。