本の覚書

本と語学のはなし

【ギリシア語】サタンが稲妻のように天から落ちる【ルカ】

 ルカによる福音書10章18節の原文とフランシスコ会訳。

εἶπεν δὲ αὐτοῖς· ἐθεώρουν τὸν σατανᾶν ὡς ἀστραπὴν ἐκ τοῦ οὐρανοῦ πεσόντα.

すると、イエスは仰せになっ た、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た。

 72人(もしくは70人)の弟子たちが派遣先から帰ってきて、喜び勇んでその報告をする。それにイエスが答える場面。
 他の福音書に並行記事はなく、ルカのみが伝えるイエスの言葉である。


 岩波訳(佐藤研)の訳と注。

すると彼〔イエス〕は彼ら〔弟子たち〕に言った、「私は、サタンが天から稲妻のように落ちるさまを見とどけた。

サタンが決定的に敗北し、天から駆逐されたことを示唆する、黙示思想的幻視。


 大貫隆新約聖書ギリシア語入門』のコラムより訳(イエスのセリフ部分のみ)と解説。

私(イエス)はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。

天ではすでに神が勝利し、サタンという根源的な悪の力は克服されている。この幻と共にイエスの目には、野の百合、空の鳥など自然自体が輝き始める(マタ6, 25-34)。すべての者に昇る太陽と降る雨も、人間社会が勝手に設けた「悪人と善人」、「義人と罪人」という差別を神が廃棄することを告げる言葉に変わる(マタ5, 45)。イエスは今や荒野から人里へ戻り、天で打ち立てられた「神の支配」が地上にも侵入しつつあることを宣べ伝え始める。前記の幻はイエスが洗礼者ヨハネから自立し、独自の宣教活動に踏み出した瞬間、つまり、召命体験を語るものに他ならない。(p.13)

 召命体験というにはもう随分独自の活動を行ってからのセリフである。恐らくは、元来この言葉はこの文脈の中で語られたものではない、と考えているのであろうか。
 終末は遠い先にあるのではなく、すでに「神の支配」あるいは「神の国」(バシレイアは支配とも国とも訳される)は地上に実現されつつある。大貫の基本的な理解である。


 田川建三の訳と注。

〔イエスは〕彼ら〔弟子たち〕に言った、「私はサタンが天から稲妻のように落ちるのを見ていた。

 私の知る限り、すべての訳が「見ていた」ではなく、「見た」と訳している。悪霊どもの親分であるサタンは一匹しかいないのだから、サタンが天から落ちるとしたら、一度だけの出来事であるはずである。従って「見ていた」よりは「見た」と訳す方が座りがいい。しかしこの動詞、アオリストではなく、未完了過去である。つまり動作の継続か反復を意味する。とすればここは、文法的には、サタンが落ちてくる光景をずっと見続けていた、という意味か(継続)、むしろ、あなた方が悪霊を追い出す度にサタンが天から落っこちるのを私は見た(反復)、という意味だろう。サタンが何度もくり返して天から落ちるわけがない、などという算術的な論理は古代人は持ち合わせていなかった、ということだ。ほら、また弟子たちがどこかで悪霊どもをやっつけた、だからサタンがまた天から落ちたのだ・・・・・・。少なくとも稲妻であれば、何度も何度もくり返し光るものである。このイエスは、稲妻が光る度に、そらサタンが落っこちたと喜んでいた、ということだ。おどろおどろしいというか、むしろ何となく楽しい古代人の感覚というものである。
 右〔上記〕のように文法的におとなしく文をそのまま理解すれば、大多数の聖書学者のように慌てて、イエス・キリストによる神の国到来の宣言だ、終末論的実現だ、などと解説するへまも避けられよう。この文にはどこにも「神の国」だの「終末」だのということは言われていない。

 例によって田川は意地の悪い解釈をする。しかし、「見ていた」としたからと言って、大貫のように解釈する人もあるのだから(大貫の場合は、多分「継続」の意味に取っているのだろう)、必ずしも神の国到来の宣言であることを否定することにはならないようだ。
 そもそも田川は、このセリフがイエス自身に由来するとは考えていない、考えたくないということだろうか(可能性そのものを否定しているわけではない)。