本の覚書

本と語学のはなし

アウグスティヌス著作集28 三位一体/泉治典訳

 抽象的な内容の本を読むことが最近全くなかったから、少なからず困難を覚えたのだが(最初は眠くて仕方なかった)、少量ずつ進めて何とか読み切った。
 各言語において専門を設定しようという試みの中で、ラテン語に関してはアウグスティヌスを選択した。ドイツ語ではニーチェを止めて(その後ビューヒナーも止めて)、聖書原典講読の際にルター訳(1989)を参照するだけにしたように、ラテン語アウグスティヌスを止めて、専らウルガタ訳を読むだけにしたら(モンテーニュの中にもしばしばラテン文学の引用があるけれど)随分楽になるだろうと思う。いずれそうするかも知れない。
 ただ、今アウグスティヌスを諦めるのは早すぎる。少なくとも翻訳で『神の国』、ラテン語で『告白』を読み終えた後に判断するべきである。『三位一体』を読んだ限り、私に理解できたのは僅かな部分に限られるとしても、アウグスティヌスは何とかしがみつくべき存在であるように思われるのだ。
 ちなみに、もう長いこと教会には通っていないし、今後通うこともないかも知れないが、私の洗礼名はアウグスティノという。受洗は学生時代のことである。岩波文庫の『告白』を読んで退屈に思っていたはずなのに、なぜわざわざこの名を選択したのか、今となっては思い出せない。ただの虚栄であったかも知れない。しかし、それが今、私をアウグスティヌスへを結びつけて、簡単に捨て去ることを許さない。


 三位一体の痕跡は、我々の内にも刻まれている。我々に三位一体を完全に知解することは出来ないが、少なくとも「鏡をとおして謎の中で」それを見ることは出来る。
 やがてその鏡が取り払われ、「顔と顔とを合わせて」見る時が来る。しかし、それまでは鏡をとおして常に尋ね求めなくてはならない。それが神学であり、信仰である。

けれども、これまで多くのことを述べてきたにもかかわらず、あの言説を絶する至高の三位一体にふさわしいことを、私は何一つ述べなかったと、あえて表明しよう。(15巻27章50)

 これこそが神学の振る舞いであり、信仰の振る舞いである。