本の覚書

本と語学のはなし

神の国2

赤鉛筆

 今、大貫隆の『イエスという経験』(岩波書店)という本を読んでいる。
 最近は後で古本屋に売る可能性のことも考え、本に書き込みをすることはなかったのだが、付箋で済まそうとすると付箋だらけで訳の分からないことになりそうだったので、赤鉛筆で線を引き始めた。段落1つ読んでは赤線を引いてまた読み直す、という作業をしているので、なかなかはかどらない。
 そこで、本来は読了してからまとめて書くべきところを、先取りしてメモをしておく。

烈しく攻むる者

バプテスマのヨハネの時より今に至るまで、天国は烈(はげ)しく攻めらる、烈しく攻むる者はこれを奪ふ。(マタ11:12)

 先日「神の国」という記事を書いた時に引用した「マタイによる福音書」の一節である。
 これは福音書記者たちにも理解のできない言葉であったらしい。ルカは全く違う文脈の中でこれを取り上げている。*1

律法(おきて)と預言者とはヨハネの時までなり、その時より神の国は宣伝(のべつた)へられ、人みな烈(はげ)しく攻めて之に入る。(ルカ16:16)

 洗礼者ヨハネから独立した後にイエスの宣べ伝えた「神の国」の福音がすばらしいので、誰もが力づくでそこに入ろうとした。それがルカの解釈である。
 しかし、マタイは謎は謎のままに残してイエスの言葉を保存した(全くマタイの手が入っていないということではない)。

良い意味か、悪い意味か

 では、「烈しく攻めらる」だの「烈しく攻むる者」だの「これを奪ふ」だのは何を意味しているのだろうか。
 岩波聖書翻訳委員会訳で佐藤研が注を付けているように、否定的と肯定的との間で専門家たちも揺れている。その辺の事情を大貫がまとめている。

 ところが、「天の国(神の国)は暴力を加えられている。そして、暴力的な者たちがそれを奪い取っている」は、そもそもルカのように良い意味に取るべきなのか、それとも悪い意味、つまり「神の国」が不当な攻撃を受けているということなのか。最近では、J・グルニカが良い意味に取り、前掲の訳文の「暴力的な者たち」あるいは「奪い取っている」に該当するギリシア語(それぞれbiastai, biazetai)*2のさまざまな語義を調べた上で、「神の国」に入ろうとして「決然として揺るがない者たち」の意味だとしている。古いところでは、それは新しい愛の倫理に貫かれた弟子の共同体を形成することで神の実現を「強制的に」早めようとするイエス自身のことだという解釈(A・シュバイツァー)も行われた。最近のG・タイセンによれば、「暴力的な者たち」は、元々ユダヤ教律法学者たちがイエスと弟子たちに貼りつけた烙印であったが、イエスはこれを逆手に取って自己呼称(自己烙印)としたのだという。悪い意味に取る解釈には、「狂信派の政治主義的メシア運動」(G・ボルンカム)、あるいは、いささか奇抜だが、洗礼者ヨハネと彼の弟子たちへの批判だとする説(田川建三、上村静)などがある。(p.78-79)

 田川によれば、「神の国」を宣べ伝えたのは洗礼者ヨハネであってイエスではなかった。そして、イエスヨハネ集団の「神の国」宣教に対しては、冷ややかにこれを眺めていたというのであった。
 しかし、大貫はこれを「いささか奇抜」として一蹴する。イエスは洗礼者ヨハネから一定の遺産を受けているのだし、何よりもヨハネは「神の国」など宣教してはおらず、その福音を伝えたのはイエスに他ならないのである。
 では、大貫はこの節をどう解釈するのか。

 しかし、私たちには、この言葉が「神の国」とサタンの勢力の間の角逐について述べるものだとする早くからの解釈が最も妥当だと思われる。天から墜落したサタンは、地上で最後のあがきを続けているのである。(p.79)

墜落のサタンと神の国

 田川建三や荒井献は「神の国」をイエスの教えから排除しようとする。北米に起こった「第三の探求」においても、原理主義へのアンチテーゼたるべくかどうか、これを考慮しようとはしない傾向にある。
 だが、それではイエスの社会的振舞の内的根拠を明らかにすることはできないのだ、と大貫は主張するのである。イエスはたしかに「神の国」について語った。それはあの幻から始まったのである。

われ天より閃く雷電(いなづま)のごとくサタンの落ちしを見たり。(ルカ10:18)

 サタンが追放された天上では既に祝宴が始まっている。アブラハムもイサクもヤコブも席についている。ラザロも招かれた。「神の国」は「全時的今」を獲得しているのである。
 だが、サタンが落ちてきた地上においては、その誘惑が続いている。

 イエスは「神の国」の宣教の道すがら、多くの病人を癒し、悪霊祓いの「奇跡」を行った。それは地上でなお最後のあがきを続けるサタンとその手下の悪霊たちとの闘いに他ならなかった。その闘いの一挙手一投足と共に、すでに天上で始まっている「神の国」が地上にも広がっていく。イエスが同時代の政治主導的メシア運動が繰り返し約束したような、大向こうの観衆を唸らせる派手な「救済史的奇跡」ではなく、個々の病人と個々の悪霊憑きの癒しに精を出したのは、このような動機づけによるものなのだ。(p.80)

続きは読了後に

 まだイエスの初発のイメージを見ただけで、それがどう編まれ、どう生きられるのか。何より、イエスの十字架上の死とその復活信仰を大貫はどう理解しているのか、という点は、これからのお楽しみである。
 それにしても、なかなかいい本だと思うけど絶版になっているのは惜しい。もともとキリスト教関連の本自体が読書人口をそれ程多くは持っていないのだろうけど、教義に忠実な人からも、田川的なラディカルな人からも、なにか中途半端な主張に見えてしまって読者がつかないのかもしれない。

イエスという経験

イエスという経験

  • 作者:大貫 隆
  • 発売日: 2003/10/25
  • メディア: 単行本

*1:福音書の編集とはそうしたものである。

*2:単純なミスだとは思うが、biazetaiは「暴力を加えられている」であり、「奪い取っている」の原語はharpazousinである。