本の覚書

本と語学のはなし

原典講読の再開

 ようやく文法書ばかりの生活を抜け出し、原典講読の喜びを取り戻した。やるべきことが多すぎて、いずれ整理しなくてはならないのは明らかだが、今日のところは復活の記念に、読んだところから短めの引用をしておく。


■聖書/フランシスコ会
 これは原典ではないが。歴史書から「歴代誌下」、詩・格言・預言書からは「ヨブ記」、新約からは「マタイによる福音書」を、それぞれ一章ずつ読んでいる。

すると、彼ら〔東方の博士たち〕がかつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、幼子のいる場所まで来て止まった。彼らはその星を見て、非常に喜んだ。家の中に入ってみると、幼子が母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を礼拝した。そして宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタ2:9-11)

 小学校三年か四年のとき、イタリア人神父の指導の下、クリスマスにイエス誕生の場面を英語劇にして演じたのだが、私の役どころは噂を聞いて駆けつける近くの農民であって、手土産には赤いビニールテープを巻きつけて作った「さつまいも」を持って行ったのだった。

 フランシスコ会訳では、新約が旧約を引用する場合には、注で参照箇所を示してくれる。しかし、旧約の方には新約で引用されているということが何も書かれていない。これはかなり残念だ。


■道元禅師全集16/道元
 スピノザとともに、キリスト教に対抗せしめるべく始めた道元。以前『正法眼蔵随聞記』の途中でやめたのだが、そこからまた再開する。

仏法者は、衣鉢えはつの外は、財をもつべからず。何を置かん為に塗籠ヌリコメをしつらうべきぞ。人にかくす程のものを、不可持もつべからず不持もたずはかえってやすき也。人をば殺すとも、人には不被殺ころされじなんどと、思ふ時こそ、身もくるしく、用心もせらるれ。人は我を殺すとも、我は不加報ほうをくわえじと、思定おもひさだめつれば、先づ用心もせられず、盗賊もうれへられざるなり。(四p.210)

 「学道の人は尤も貧なるべし」と始まる夜話の結び。私は出家人や修道士を目指しているわけではないが、人並み以下の身分と生活に身を沈めた今もなお、まだ豊かすぎるのではないかと疑っている。
 返り点は省略した。ルビも一部省略してある。


イーリアスホメロス
 英雄アキレウスも母なる女神テティスの前では涙を流し、すねてみせる。

οἶσθα. τί ἦ τοι ταῦτα ἰδυίῃ πάντ’ ἀγορεύω ; (1.365)

母上はご存じのくせに。すでに事情をご承知のあなたに今更なにもかもお話することはないのですが―― (上p.29)

 この訳だとταῦταἰδυίῃの目的語であり、πάντ’(α)ἀγορεύωの目的語であるように見えるが、通常の解釈はこれとは逆のようだ。つまり「すべてをご存じのあなたに事情を話す」である。


アエネーイスウェルギリウス
 妹のアンナに語りかけるカルタゴの女王ディードー。

non ego cum Danais Troianam exscindere gentem
Aulide iuravi classemve ad Pergama misi,
nec patris Anchisae cineres Mansisve revelli ; (4.425-427)

わたしは、誓っていうけれど、ギリシアのひととアリウスで、
共謀遂げてトロイアの、族(うから)を根絶やしにすることを、
図ったこともかつてなく、わが船隊をトロイアに、
送ったこともわたくしは、全くないしあれの父、
アンキーセースの霊灰を、あばいたこともありません。(上p.243)

 ギリシア人らがトロイアを陥落させると(アキレウスは途中で戦死した)、トロイア方の武将であるアエネーアースは故郷を逃れてイタリアに向かい、その途中カルタゴに流されディードーと恋に落ちたのである。
 しかし、今、アエネーアースはディードーを捨て、イタリアに向かって出発しようとしている。彼女の怒りは収まらない。四巻の終わりへと向けていよいよ激昂は凄まじくなり、悲劇的なクライマックスを迎える。


ファウストゲーテ

Auch hab ich weder Gut noch Geld
Noch Ehr und Herrlichkeit der Welt;
Es möchte kein Hund so länger leben! (p.25)

それに己は金も品物も持っていず、
世間の栄華や名聞も持っていない。
この上こうしていろと云ったら、狗(いぬ)もかぶりを振るだろう。(p.37)

 ファウスト博士の独白である。どれほど学問を修めても何にも知ることができない。自惚れを持つこともできない。その上、金も名誉もないというのである。こんな生活、犬だって我慢ならないだろう。
 だが、そういう生活を私も送っている。

 訳は森鷗外。辞書は博友社の木村・相良を再び使い始めた。もう少し字の大きいのを出してほしい。


■中国名詩選(下)/松枝茂夫編
 白居易の「新豊しんぼううでを折りしおきな」より。白居易はやさしくてよい。

是 時 翁 年 二 十 四    の時 おきなは年二十四、
兵 部 牒 中 有 名 字    兵部へいぶ牒中ちょうちゅう名字めいじり。
夜 深 不 敢 使 人 知    けて 敢て人に知らしめず、
偸 将 大 石 鎚 折 臂    ひそかに大石たいせきもつってうでを折る。
張 弓 簸 旗 倶 不 堪    弓を張り旗をることともえず、
従 茲 始 免 征 雲 南    れより始めて雲南くをまぬがる。(p.125)

その時わたくしは二十四歳で、兵部省の名簿に名前が載っておりました。ある夜ふけに誰にも気づかれないように、こっそり大きな石で腕をたたき折ってしまったのでございます。これでは弓を引きしぼることも、旗をふるうことも出来ません。おかげでやっと雲南行きはのがれました。


源氏物語(三)/紫式部

同じ年の二十余日、御国ゆづりのこと、にはかなれば、大后おぼしあわてたり。「かひなきさまながらも、心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり」とぞ、聞こえなぐさめたまひける。坊には承香殿の皇子ゐたまひぬ。世の中あらたまりて、引きかへ今めかしきことども多かり。源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。(「澪標」p.14)

 冷泉院が即位する。故桐壺帝の子ということになっているが、実は源氏と藤壺の間に生まれた不義の子である。須磨から戻り、権力の絶頂へと向かう源氏ではあるが、はなやかでありつつも不吉な政権交代だ。


■赤と黒/スタンダール

Le soleil en baissant, et rapprochant le moment décisif, fit battre le cœur de Julien d’une façon singulière. La nuit vint. Il observa, avec une joie qui lui ôta un poids immense de dessus la poitrine, qu’elle serait fort obscure. Le ciel chargé de gros nuages, promenés par un vent très chaud, semblait annoncer une tempête. Les deux amies se promenèrent fort tard. Tout ce qu’elles faissaient ce soir-là semblait singulier à Julien. Elles jouissaient de ce temps, qui , pour certaines âmes délicates, semble augmenter le plaisir d’aimer. (p.66)

陽は沈みゆき、いよいよの瞬間が近づくにつれて、ジュリアンの心臓はあやしく高鳴った。夜になった。闇は深かろうということを見てとると、彼は胸の上の大きな重荷をとりのぞかれたようなうれしさを感じた。熱風に吹きおくられる大きな雲をのせた空は嵐を告げるようだった。二人の女は大そうおそくまで散歩していたが、彼女たちの今晩の振舞いはすべて、ジュリアンには変に思えた。感じやすい人々にとっては、愛の喜びを増すようにさえ思われる、こういう天候を彼女たちは喜んでいたのである。(上p.96-97)

 いよいよレナール夫人との恋が始まりそうな予感である。


チャタレイ夫人の恋人D.H.ロレンス

She went away gloomily. Next year! What would next year bring? She herself did not really want to go to Venice: not now, now there was the other man. But she was going as a sort of discipline: and also because, if she had a child, Clifford could think she had a lover in Venice. (p.132)

彼女は憂鬱な気持ちで立ち去った。来年! 来年になったら?どうなるだろう。彼女自身もほんとうはヴェニスへ行きたくはなかった。ことに今、あの人がいるのに。だが彼女は一種の修行のつもりで行こうと思った。それにまた、もし子供でも生まれるようなことがあれば、クリフォードは彼女がヴェニスで恋人を作ったと思うだろう。(p.277)

 伊藤訳は今一つ。

 さて、ここに旧約聖書新約聖書スピノザの原典講読が加わったらどうなるか。読めないことはないけど、どれもかなり中途半端になってしまうだろう。どのような取捨選択を行うべきか、悩むところだ。