- 作者:鉄雄, 塚原
- 発売日: 1983/01/01
- メディア: 単行本
短篇集全体を通じて、王朝物語の伝統を踏まえつつ、そこから乖離していく爛熟の様相を呈している。それぞれになかなか面白かった。
新潮日本古典集成の本文と注を読みながら、講談社学術文庫の訳も参照した。ところが、本文もだいぶ違うし、解釈もまた大きく異なる場合がある。例を一つ挙げておく。「思はぬ方にとまりする少将」は、ある姉妹と関係を持っていた従弟同士の少将が、偶然に姉と妹を取り違えてしまうという話である。
男、女も、いづ方も、ただ、同じ御心のうちに、あいなう胸ふたがりてぞ、思さるる。さりとて、また、もと、おろかにはあらぬ御思ひどもの――めづらしきにも劣らず――いづ方も、限りなかりけるこそ、なかなかにがきしも、くるしかりけれ。
学術文庫の本文では、句読点やダッシュ、漢字の相違のほか、「もと」が「もとを」、「苦きしも」が「深きしも」になっている。が、それは大してことではない。決定的に違うのが解釈である。先ずは学術文庫の訳。
男君たちも女君たちも、それぞれどちらも同じお心の中であったが、女君たちはむしょうに胸がしめつけられるほど悲しい思いでいらっしゃる。とはいえ、男君たちは、もとの恋人への思いがおろそかでないだけに、取り違えた恋人への新鮮な思いにもおとらず、どちらの女君も限りなくすばらしかったのこそ、かえって愛情が深くなって胸苦しいことであった。
女君と男君とでは、まったく心の内が違うものとして訳されている。
ところが、新潮日本古典集成の方では、この文章全体を通じて、主語は四人の男女であると考える。注釈を拾ってみる。「同じ御心のうちに」には「夫婦交錯の事故の結果が、四人ともに、前夜の相手を思慕させることの暗示」、「めづらしきにも劣らず」には「新鮮な情事に傾斜するのは、常例であった。しかるに、四人の男女は、新旧の愛人に均等に傾斜する。常例の枠外であることをとくに説明する」、「いづ方も」には「右大臣の少将も右大将の少将も、姉君も妹君も」、「限りなかりけるこそ」には「愛情にかぎりがなかったにつけて」、「なかなか苦き(御心のうち)しも」には「新しい相手への愛情によって、本来の相手への愛情が減失しないから、かえって深刻な自責となる」など。要は、思いがけぬ取り違えを、全員が享受しつつ、それによって元の相手への愛情が衰えないところに、全員が自責を感じているのだという。
このあたりは、作品そのものの解釈にも関わってくる。