本の覚書

本と語学のはなし

蝉の声

 『中国名詩選(中)』を読んでいたら、南朝の梁の時代の王籍という人の「入若耶渓(若耶渓じゃくやけいる)」に目が留まる。当時「文外独絶」ともてはやされたという、第五・六句を引用する。

 蝉 躁 林 逾 静    蝉さわいで 林 逾々いよいよ静かに、
 鳥 鳴 山 更 幽    鳥鳴いて 山 更に幽なり。


蝉しぐれのために林はいっそう静けさを増し、鳥の囀りのために山はいっそう深く感じられる。

 芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を誰もが思い出すだろう。新潮日本古典集成で確認してみたが、この詩への言及はない。しかし、どうみてもこれを本歌としていることは明らかであり、するとこの詩のイメージもまた芭蕉の句に織り込んで解釈すべきものなのかもしれない。
 王籍は現在の浙江省紹興に赴任した際、郡の南の境の渓流に遊び、数か月帰ることを忘れたという。この詩はその時のもので、「此の地帰念を動かし、長年倦遊を悲しむ」と結ばれている。「帰念」は、都に帰りたいとか家に帰りたいとかではなくて、隠棲を願う気持ち。「倦遊」は外地を転々とした末の倦怠感。
 芭蕉のユニークな点は、蝉の声が「岩にしみ入る」としたところだろう。王籍の「帰念」を志向するひたすら静かな詩と比べると、そこに収まり切らない精神のある極点を指し示しているようでもある。イメージを取り込むとは、また一面においてそのイメージを裏切っていくことでもあるのだ。