本の覚書

本と語学のはなし

枕草子「清少納言の里居」

 殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、さわがしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえ絶えてあるまじかりける。(137 殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来

 関白殿がおなくなりになってから、世の中に事件が起り、騒がしくなって、中宮様も宮中にお入りあそばされず、小二条殿という所においでになるのだが、何ということもなくいやな気分だったので、わたしは長い間里にじっとしていた。でも、中宮様の御前のあたりが気がかりで、やはりご無沙汰を続けていることができそうにもなかったのだった。


 亡くなった関白とは中宮定子の父・道隆のこと。995年4月10日没。政権は道隆の弟・道兼へ、道兼も1月後に没してからは、道長へと移る。翌年、道長は道隆の子(自分の甥であり、定子の兄でもある)伊周と隆家を不敬事件の罪に当てて、左遷する。これが世の中に起こった事件である。
 定子の19歳から20歳(数え)にかけてのこと。そんな頃に、清少納言は定子の元をいったん去って里に帰る。「何ともなくうたてありしかば」とぼかしてはあるが、どうやら道長側の人間と見做され疎んじられたらしい。

 げにいかならむと思いまゐらする御けしきにはあらで、候ふ人たちなどの、「左の大殿方の人知る筋にてあり」とて、さしつどひ物など言ふも、下よりまゐる見ては、ふと言ひやみ、はなち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ、「まゐれ」など度々ある仰せ言をも過ぐして、げに久しくなりにけるを、また宮のへんには、ただあなたがたに言ひなして、そら言なども出で来べし。(同上

 「本当に中宮様はわたしをどうお思いだろうか」と懸念するような、そんな御不興の御様子ではなくて、ただおそばにお仕えする女房たちなどが、「あの人は左大臣様側の人と知り合い筋だ」と言って、皆で集って話などをしている時にも、わたしが下局から御前に参上するのを見ては急に話をやめて、わたしをのけものにしておくような態度をとるのが、今までそんな目に会ったこともなくにくらしいので、「参上せよ」などとたびたびある仰せ言をもそのままにして、なるほど長い間たってしまったのを、それをまた中宮様のおそばあたりでは、ただもう左大臣側の者と決めてしまって、根も葉もないことなども出てきそうである。


 これがそのあたりの様子について、清少納言が綴った唯一の証言のようだ。左大臣道長のこと。道長側との関係が実際にはどういうものか私は知らないが、『枕草子』の他の部分でも清少納言道長びいきは見て取れる(例えば「124 関白殿、黒戸より出でさせたまふとて」参照)。
 定子から度々参上せよと言われても無視し続けることができたという当時の皇室事情も垣間見れて面白い。
 この段の後半は、清少納言が戻った時に定子の語った長々しい話になるのだが、それが話のきっかけになったこととは微妙にずれていて、清少納言も結びにやや困惑している気味なのも面白く、しんみりとさせる。
 定子は1000年、第2皇女を出産した後に、24歳で亡くなった。