本の覚書

本と語学のはなし

正法眼蔵


 道元正法眼蔵』の「安居」より。

堂奥にいらざる児孫、おほく摩竭掩室(まかつえんしつ)を無言言説の証拠とせり。いま邪党おもはくは、掩室坐夏(えんしつざげ)の仏意は、それ言説をもちゐるはことごとく実にあらず、善巧方便(ぜんげうはうべん)なり。至理は言語道断し、心行処滅なり。このゆゑに、無言無心は至理にかなふべし、有言有念は非理なり。このゆゑに、掩室坐夏九旬のあひだ、人跡を断絶せるなりとのみいひいふなり。これらのともがらのいふところ、おほきに世尊の仏意に孤負(こぶ)せり。(3.426頁)

仏祖の堂奥を知らない児孫は、おおく摩竭陀国におけるこの掩室を、〔世尊が〕語ることをやめた証拠としている。
 いま邪党は、「掩室して安居した仏の心は、言説をもちいるのは、すべて真実ではない、たんなる方便にすぎないということである。真理は、言語道断(言葉を超え)、心行処滅の(心の働きを滅した)ところにある。このゆえに無言・無心は真理に適うであろう。有言・有念は真理を示すものではない。だから世尊は、掩室して九十日のあいだ、部屋にこもり、人に逢わなかったのである」とばかり思い、こう語り合っているのである。これらのものどもの言うところは、大いに世尊の真意にそむいている。(6.224-5頁)


 拈華微笑とか以心伝心とか冷暖自知とか、言語を信用しないような禅語はたくさんあるが、ひたすらそういうことを振り回して悟りすますのが禅だとすれば、そんなものは滅びてしまってもいい。