本の覚書

本と語学のはなし

The Moon and Sixpence


 文芸翻訳とはこういうことであるのかと思ったところを書き抜いておく。
 場面は、妻子を捨てて女とパリへ逃げた(らしい)ストリックランド氏の情報を得るべく、夫人が知り合いで作家の「私」にパリに言ってくれないかと依頼したところ。


【原文】
 Her voice trembled a little, and I felt a brute even to hesitate.
 “But I’ve not spoken ten words to your husband. He doesn’t know me. He’ll probably just tell me to go to the devil.”
 “That wouldn’t hurt you,” said Mrs. Strickland, smiling.


【行方訳】
 彼女の声が少し震えた。ここで躊躇するなど、紳士として許されない。あわてて答えた。
 「お引き受けしますとも。ただ、僕はご主人とはほとんど口を利いたことがありません。きっと僕のことをご存じないでしょう。出て行けと言われるかもしれませんね」
 「そう言われたら、かえってちょうどいいじゃありませんか」彼女は微笑みながら言った。


 「あわてて答えた」に相当する原文は存在しないようだ。たぶん、「hesitate」を内面の躊躇とその外的表現としての時間的滞留の両面を指すのだと考えて、分解して訳したのだろう。
 「お引き受けしますとも」に相当する原文は完全に存在しない。しかし、そのまま日本語になおすと、躊躇するさえ残忍な仕業という思考と実際に発した言葉の内容が乖離してしまうと恐れ、前の一文の後半部分から分析的に判断し、原文では再現されていない実際の会話を復元することになったのだろう。


 ある程度まとまった量の文章を読んでから翻訳に目を通すので、細かい点での原文との異同はあまり気にしていない。しかし、時々「えっ、こんなこと書いてあったっけ」ということがある。私の意味の取り違えや勘違いが多い中、こういうふうに訳者の苦心のあとに遭遇することもある。これがなかなか楽しい。