●柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書)
翻訳語の成立の歴史について考えるとき、これを単にことばの問題として、辞書的な意味だけを追うというやり方を、私はとらない。ことばを、人間との係わりにおいて、文化的な事件の要素という側面から見ていきたいと思う。とりわけ、ことばが人間を動かしている、というような視点を重視したい。(47頁)
なぜことばが人間を動かすというようなことになるのか。とくに翻訳語に顕著なこのはたらきを、著者は「カセット効果」と呼ぶ。
カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分からなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。(36-7頁)
具体的には、individualを「人民各箇」なり「一身ノ身持」なり「個人」なりと訳すとする。
ここで重要なことは、こういう「四角張った文字」〔福沢諭吉のことば〕の意味が、原語のindividualに等しくなるのではない、ということである。これらのことばをいくら眺めても、考えても、individualの意味は出てこない。だが、こういう新しい文字の、いわば向こう側に、individualの意味があるのだ、という約束がおかれることになる。が、それは翻訳者が勝手においた約束であるから、多数の読者には、やはり分からない。分からないのだが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よくは分からないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。(36頁)
こういう翻訳語のカセット効果をさかんに言い立てる本なので、私にとってはあまり面白い読み物とはならなかった。
ただし、ここで扱われる10個の翻訳語(「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」)のうち、「権利」の項は必読。「権」とは「力」である。
- 作者:柳父 章
- 発売日: 1982/04/20
- メディア: 新書