本の覚書

本と語学のはなし

ΠΟΛΙΤΕΙΑ


 正月なので、翻訳研究というよりは、ちょっとギリシア語の入力をしてみたくなって。時間がかかるけど、楽しい。


 プラトンの『国家』(365A-B)より。
 トラシュマコスがソクラテスに言うセリフ。


 οὔτε γὰρ ἄν με λάθοις κακουργῶν, οὔτε μὴ λαθὼν βιάσασθαι τῷ λόγῳ δύναιο.


〔ロエーブ叢書の英訳〕
 for you won’t get the better of me by stealth and, failing stealth, you are not of the force to beat me in debate.


岩波文庫の藤沢訳〕
 ひそかにわたしを陥れようとしてみても、見破られずにはいないだろうし、そうかといって、公然と議論のうえでわたしをやっつける力もないだろうしね


 「λάθοις」とか「λαθὼν」は、辞書で引くときは「λανθάνω」の項を見る。ギリシア語を学び始めて一番困るのは辞書が引けないということだが、まあ英語が例外的に辞書を引きやすいのだと思うべきなのかもしれない。
 で、この動詞は分詞を伴うのだけれど、訳すときには分詞の方を主にして、「λανθάνω」の方は「気付かれずに」と副詞的に扱う。英訳で「by stealth」(ステルス戦闘機のステルス)、邦訳で「ひそかに」となっているとおりだ。邦訳で「見破られずにはいない」とわざわざ二重否定にしたのは意訳であろう。
 「μὴ λαθὼν」は分詞であるけれど、これだけで条件節のようになっている。「in debate」とか「議論のうえで」と訳されているのは「τῷ λόγῳ」。本当に何の意味もなさない直訳をすると、「ロゴスにおいて」ということだ。


 これに対するソクラテスの答えは、皮肉たっぷりだ。


 Οὐδέ γ’ ἂν ἐπιχειρήσαιμι, ἦν δ’ ἐγώ. ὦ μακάριε.


〔ロエーブ叢書の英訳〕
 Bless your soul, said I, I wouldn’t even attempt such a thing.


岩波文庫の藤沢訳〕
 それにまた、ぼくはそんなことをしてみる気にもならないだろうしね、君


 邦訳で「君」と簡単に訳されているところを、英訳では「Bless your soul」としている。ともに「ὦ μακάριε」の訳である。
 ギリシア語の対話では、あまりにしばしば相手に呼びかけを行うので、通常邦訳ではほとんどカットされるか「君」程度で済まされる。
 しかし、この場合「マカリエ」*1は固有名詞ではない。「祝福された者、幸福な者」といった意味の普通名詞(形容詞)である。ソクラテスは時々これを呼びかけに使う。しかし、よく使うとは言っても、それなりのニュアンスを含むのであって、「君」はいただけないような気がする。藤沢訳では、対応する単語にきっちり置き換えてそのニュアンスを言い表そうとするよりも、文章全体でそれを出そうとしている、ということだろうか。


 完全に自己満足の翻訳研究。

*1:「オー」は呼格に必ずくっつくもので、私が古代ギリシアに行けば、「オー三歩」と言われるのである。英語でもいちいち「Oh, Socrates」などとは訳さないので、ここでは無視。