本の覚書

本と語学のはなし

「洗面」

 しかあればすなはち、見楊枝は見仏祖なり。(道元「洗面」)


 楊枝を見ることは仏や祖師にまみえることだという。
 タイプミスでも誤変換でもない。まさに道元の言葉である。
 それなら楊枝の指すものが現代とは異なるのだろうと推測する人もいるに違いない。確かに異なる。が、何か神聖な宗教的な用具のことではない。楊枝は先端をよく噛み繊維をほぐし、それでもって歯や舌を磨いたのであるから、今ならば歯ブラシに相当するものである。
 しかし、道元は仏典を引きながら楊枝の用い方を細かく指示し、挙句にそれが仏や祖師にまみえることだと言う。
 清浄を得るために楊枝を使うのだ。単に物質的な意味ではない。物質的には、いくら磨いたところで完全な清浄には至らないであろう。仏法に則り楊枝を用いること、それこそが清浄なのである。
 同様に、坐禅をしたところで悟りを得ることはできない。しかし、坐禅をすることが悟りである。
 道元の会下にあっては、修行を続けること、行持のうちに仏を見たのである。