面白い翻訳の見本として、泉井久之助訳『イーリアス』第4巻の冒頭から(この部分が特に振るっているということではない)。
カルタゴの女王ディードーの英雄アエネーアースに対する恋の描写。
At regina gravi iamdudum saucia cura
volnus alit venis et caeco carpitur igni.
multa viri virtus animo multusque recursat
gentis honos ; haerent infixi pectore voltus
verbaque, nec placidam membris dat cura quietem.
ロエーブ叢書の英訳は比較的原文に忠実だ。
But the queen, long since smitten with a grievous love-pang, feeds the wound with her life-blood, and is wasted with fire unseen. Oft to her heart rushes back the chief’s valour, oft his glorious stock ; his looks and words cling fast within her bosom, and the pang withholds calm rest from her limbs.
泉井は英雄叙事詩のヘクサメトロスを七五調に置き換える。
しかし女王ディードーは、すでに前より恋い慕う、
情に傷つきその傷を、おのが血潮であたためつ、
ただ盲目の火のとりこ。絶え間をおかず英雄の、
武徳と生まれの高貴さは、しきりに心に往来し、
胸底ふかく面影と、ことばは焼きつき憂悶に、
五体の眠りも安からず。
名訳と言う人もいるようだけど、あるラテン語の先生は口を極めてこの訳をけなしていた。
書きながら気付いた点を3つほど。
1つめ。「盲目の火のとりこ」は誤訳ではないか。「caecus」という形容詞は、主体として見えないという意味と、客体として見えないという意味の両方を備えている。この場合は、英訳で「unseen」としているのが正しいのである。しかも、「unseen fire」、すなわち「見えない炎」ではない。付帯状況的に「with fire unseen」である。炎はそれと知れぬ間にディードーを焼き焦がしたのである。もちろん泉井久之助という人はラテン語の文法書まで書く偉大な学者だから、そんなことが分からないはずがない。分かった上で「盲目の火のとりこ」という訳を採用したのだ。*1七五調にこだわったための弊害と言うしかない。
2つめ。「haerent」という動詞と「infixi」という形容詞(正しくは動詞の受動分詞)は似たような意味である。英語でも時々あるけれど、古典語では述語的に訳してはいけない形容詞が頻出する(そもそも、我々の考えているような「付加語的」とか「述語的」といった概念がはっきりあったとも思えない。形容詞は必ずしも被修飾語に隣接しないのである)。ていねいに「胸に焼きついた顔と言葉とが胸から離れない」とするのはいかにも冗長だ。英訳では「cling fast」と形容詞の方は副詞に置き換え、泉井訳では「焼きつき」と恐らく「infixi」の方だけを生かして、「haerent」を捨てている。
3つめ。ラテン語やギリシア語は、学ぶだけで同時に翻訳について考えさせられる。欧文を翻訳するるなら、ぜひ齧っておきたい言語だ。しかし、簡単にはマスターできないのが難点だ。もちろん文法が難しいということもあるが、2000年以上も残され続けてきた文章は単純な小学生の作文とは違うのであって、テキストも恐ろしく難しいものが多いのである。
*1:「恋は盲目」という言葉を連想させる効果を狙ったのかもしれない。